◎ベルリン飛行指令

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◎ベルリン飛行指令
佐々木譲
新潮文庫


 『笑う警官』から始まる“道警”シリーズから始まり、佐々木譲の警察小説を一気に6冊読んだのだが、私はこの作家を『鉄騎兵、跳んだ』で颯爽とデビューした後、何十年か不遇の時を過ごし、警察小説で一気にブレイクして知名度をあげた苦労人であると勝手に思い込んでいた。
 まったく無知とは恐ろしく、そんなことをどこかに書いてしまったかもしれない。
 佐々木譲に『ベルリン飛行指令』『エトロフ発緊急電』『ストックホルムの密使』の三部作からなる戦記物の傑作があることは警察小説を読んでいる過程で知る。とにかく、この人が20年以上も前にこんな面白い小説を書いていたことに驚きながらの読書だった。

 【ドイツが入手した日本の最新鋭戦闘機のデータは、まさに驚愕に価した。ほどなく二人の札つきパイロットに極秘指令が下る。零式戦闘機を駆ってベルリンへ飛べ。日米関係が風雲急を告げる昭和十五年、英国情報網をかいくぐってゼロ戦の銀翼が乱気流を切り進む・・・。】

 そうはいっても戦記ものなど漫画ですら読んだことがなかった私なので、この小説の物語世界に入っていくまでにはそこそこの時間を要した。十分に面白さを自覚しながらもページをめくる手がなかなか進んでくれなかったのだ。
 まず冒頭に著者が『ベルリン飛行指令』を書くにあたっての動機が紹介される。ゼロ戦をバックに撮られたドイツ軍将校と日本人飛行士の一枚の写真と「ゼロ戦を見た」という元ドイツ兵の証言。史実として語られていないゼロ戦のベルリン飛行に興味を抱いた本田技研の重役、浅野敏彦が事実関係を調査していく過程のエピソードが「第一部」として語られる。
 浅野は青年時代に零式戦闘機のエンジン技術者として従事していた人物であり、以下はその浅野に依頼される形で、著者がゼロ戦のベルリン飛来までのストーリーをドキュメンタリーとして綴っていくというスタイル。
 500ページを超える長編のうち、その「第一部」は50ページにも満たない文字数で終了し、「第二部」以降は日独伊三国同盟が締結され、日本がいよいよ大戦へと突き進む時代へと遡っていく。

 さて「第一部」を読んだ限りで、すでに我々はゼロ戦がベルリンに到着したことを知っている。途中のイラクではイギリス空軍基地を爆撃したこともわかっている。その意味で、「意外な真実」が存在したことを前提として、その真実がどのように作られ、どのように遂行されていったのかを検証し、詳細を描写することでほぼ全編を成り立たたせている小説だ。
 到達点が決まっていて、どう破綻なく着地させるのかという展開で面白く読ませる筆力は大いに賞賛したいと思う反面、この先、物語がどう二転三転していくのだろうかという予測不能なハラハラドキドキ感は放棄しなければならない。それが読みながら先へ先へとページをめくらせなかった大きな要因にはなった。
 もちろん『ベルリン飛行指令』は十分に面白い。それは魏・呉・蜀でどの国が天下を制するのか知っていても『三国志』の面白さは揺るぎのないものだし、主人公が志半ばで暗殺されることを知っていても『竜馬がゆく』はわくわくしながら長丁場を読むことができる。その域まで佐々木譲の筆力は迫るものではあった。

 何よりもヒトラーの要請により、ベルリンを目指してゼロ戦が飛ぶなどという大嘘話しを荒唐無稽な後味で終わらせなかったことが大きい。
 まずゼロ戦の飛行距離の問題があり、飛行ルートの問題もある。ドイツが頑なに拒否するロシアルートが使えないとなると、イギリスの支配下にあるインドやイラクに燃料の補給基地を設けなければならない。
 面白かったのが、ドイツからのゼロ戦製造のライセンス契約の要請に対して、日本軍司令部よりも製造元である三菱重工が色めきたったという件だった。ゼロ戦がドイツでも量産されれば、三菱にロイヤリティが払われ、結果として日本海軍への納品コストも安くなるという理屈だ。この頃の重工業はすべて国策なのだろうが、意外と資本の論理が働くものなのだ。ドイツでのゼロ戦製造というフィクションの中でここまで詳細な可能性を見逃さなかった佐々木譲を率直に称えたいと思った。
 そして佐々木譲は、飛行場確保のためインド国内を秘密裡に奔走する陸軍情報部の将校を描きつつ、その不審な行動を察知したイギリス情報局が迫ってくるというサスペンスも加味させながら、独立隆起を目指すインド国内の緊迫した政治情勢を浮かび上がらせていく。
 もちろん全体として日独伊の三国同盟の締結直後という大きな歴史的背景があり、戦火が中国から南洋へと拡大し、日本国内がいよいよ戦時下に染められていく混沌とした空気を丹念に描くことも忘れていない。
 この小説は戦争小説というよりも冒険小説という色合いが強いのかもしれないが、決してベルリンまでの途方もない距離と困難を飛ぶゼロ戦の勇姿をゲーム的に特化させるのではなく、こうした時代の混沌を史実や実在の人物を織り交ぜて小説の縦糸を頑健に作り上げながら、横糸でその時代に生きた人々を活写していく。

 悲惨な戦時下にあって、戦闘機乗りたちの一服の清涼剤と思しき英雄譚はよくある切り口ではある。南京上空からの一斉掃射を拒否し、相手戦闘機との一対一の決闘をやったことで軍法会議ギリギリのところで冷や飯を食わされているはみ出し者。主人公の海軍航空隊の安藤啓一大尉もその切り口の範囲には違いない。
 操縦士といっても軍人であり、零式戦闘機は殺戮を目的に製造された兵器ではある。しかし安藤大尉はこの計画を命じた大貫誠志郎少佐にいう「わたしは軍人である前に飛行機乗りなのです」。また別のアメリカ人パイロットもいう「戦争の一部には違いない。だけど、空の戦いは少しちがうんだ。少なくとも戦闘機同士の戦いには、ただただ殺戮し、破壊しつくす戦争とはちがうものがある。まだ多少の救いが残っていると思うのさ」。
 佐々木譲は大空の戦いにロマンを求めた牧歌的な情緒の最後の生き残りを描きながら、ひとつの価値観が終焉していく様を確実に表現していく。
 「蛮行ならば迷うことなく愚考を選ぶ」といいきった安藤大尉と部下の乾恭平空曹。二人のヒコーキ野郎が紆余曲折あって、いよいよ横須賀基地からベルリンを目指して飛び立っていく時にはページ数の3分の2まで差し掛かっていた。
 いざ飛び立ってしまってからの面白さは今更書くまでもない。もちろんベルリンに到着するまで様々な試練が二機のゼロ戦を襲うのが、ここまでくればイギリス軍の編隊を避けるため曲芸のように峡谷を縫うゼロ戦の勇姿とスピード感を想像しながら読めばいい。そこには飛び立つまでの様々な根回しや権謀術数、思惑のすべてから自由になった開放感に満ちていた。

 佐々木譲は警察小説も面白かったが、正直いえば全部の作品がカタルシスを以って読み終えたわけではなかった。むしろこの20年以上も前に発表されたこの小説のほうに作家としての円熟と到達点を感じてしまった。
 緻密な考証によって時代の空気を的確に捉えながら、戦争の愚かしさを飛行気乗りの気概の中に表現するあたりはさすがであり、零式戦闘機のフォルムの美しさ、エンジン音の恍惚感も余すことなく描写されている。
 主人公の安藤大尉がハードボイルドのヒーローのようでもあり、とくに横浜のダンスパーティの場面や、酒場付きのうらぶれた女シンガーとの情事など、往年の日活映画の一シーンを思わせてニヤリとさせられた。
 強いていえば、残念だったのが安藤大尉がハーフであるという設定と、私が戦闘機やメカについての興味が皆無だったということか。


 

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