◎分身

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◎分 身
東野圭吾
集英社文庫


 改めてエンターティメントであることの尊さ、潔さみたいなものを再認識させてもらった。まったく面白い小説を書くものである。
 それにしても東野圭吾の人気は今や最高潮なのではないか。出版された本が必ずベストセラーのトップとなるのは規定路線として、大抵の流行作家の作品が必ずしもセールスとレヴューが一致しない中で、東野圭吾は年間ミステリーベストの常連であり続け、このジャンルで直木賞作家に昇りつめるなど、出版不況が叫ばれる中で一人勝ち状態である。
 何せ会員登録した豊島区立図書館のデータベースにある「貸出しの多い資料」の中の50作品中で東野圭吾が12冊も入っているのだから凄まじい。

 【私にそっくりな人がもう一人いる。あたしにそっくりな人が、もうひとり。札幌で育った女子大生・氏家鞠子。東京で育ったアマチュアバンドのボーガル・小林双葉。宿命の二人を祝福するのは、誰か。現代医学の危険な領域が蠢く中、「追跡と逃走の遥かな旅」が始まる】

 運命の糸に引き寄せられる二人の主人公を描くモチーフとしては、私が最初に読んだ『宿命』に似ている。いや、まだ読書そのものが習慣になっていなかった頃に挫折したままの『白夜行』もこんな話だったか。とにかく別々の話が次第に接点へと加速度をあげてていくサスペンスに読者を乗せ、カタルシスへと運び込んでいく作劇が巧く計算されていると思った。
 計算されているといえば、以前に私は『容疑者Xの献身』の感想で、「表現者として情動の発露の中で物語を紡いでいるのではなく、冷徹に厳選されたピースを用いて「情動」そのものを構築しているのではないだろうか」と書き、「読者心理まで計算式に取り込んで「感動」という解答まで導き出してしまった」と結論付けたことがある。これは理数系畑を歩んできた端正なマスクの作家に対する文系男の陳腐な妄言に近いとしても、計算づくで成立させたようなストーリーを読むと、再びその思いを強くする。
 このところ(狭義の意味での)非エンターティメント小説を読んでいる感覚からすれば、何よりもストーリー重視である東野の文章は小難しい比喩も無く、はるかに簡潔に読み進めることが出来るのだが、ストーリーの骨にあるものは二人のヒロインの心理描写であり、その心理描写が行動描写と表裏一体となっているために、お気軽な読書にもならないし、先へ先へと駆り立てられるので「一気読みせざる得ない」ことにもなる。

 ストーリーは「鞠子の章」と「双葉の章」が、それぞれ二人の女子大生の一人称「私」と「あたし」で語られていく。AとBの物語を同時進行させながら、次第に距離を詰めて接点まで進行させていく手法は決して新しくはないが、それを「計算」が出来て、「書ける」作家が手がけるとなると凡百のサスペンスでは終わらなくなる。
 物語の導入で、成長とともに母親に避けられているのではないかという疑念が芽生える鞠子と、テレビ出演に対する母親の異常な拒絶に違和感を覚える双葉。やる気はないが鞠子だけ読み、双葉だけを読んでいっても案外と面白く読めてしまうのかもしれない。
 ただ正直に言うと、鞠子と双葉を取り巻く謎の数々は面白く読めたが、最後に待ち受ける結果については既に予測の範囲であり(誰でもわかることだろうが)、そこから導き出されるテーマへの興味はあまり湧かなかった。おそらく東野は二人の物語の垣根を徐々に外していく作業に腐心はしても、自分のクローンである娘二人に対して母性の発露など微塵も無く、とてつもない不快感と、老いていく自分への畏怖感に否応なく対峙せざる得ない女性心理を描きつつも、最終的には暴走した先端生命科学のダークサイドや、生物工学に残された倫理については読者の感じ方に委ねたのではないだろうか。
 クローンであることのアイデンティをそれぞれのヒロインの深層まで掘りさげるとなると、それはもう純文学の領域であるとばかりに浅い地点で打ち切ってしまったという印象が残った。
 最後に美しい大団円を用意したのは、東野にとって『分身』という小説はあくまでも数奇な運命に翻弄されながら、自分を探そうと必死の旅を続けたふたりの冒険物語であるという位置づけにしたかったのではないかと思う。

 余談だが、『分身』が刊行されたのが1993年。文庫で小説を読むときは刊行年を確認することから始めている。まだ携帯電話が普及していなかったという前提が必要だからである。今ならこのストーリーは難しい。最先端の生命科学を描きつつも妙な話ではあるのだが。


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