◎双頭の悪魔

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◎双頭の悪魔
有栖川有栖
創元推理文庫


 図書館にて『双頭の悪魔』の文庫版を受け取ったとき、まずはその分厚さに目がいった。『月光ゲーム』『孤島パズル』と続けて読んできたが、その二作を合わせたほどの分量。いよいよミステリー作家として有栖川有栖の脂が乗ってきたということか。
 いや、いくらなんでも文字数が多くなったからといって、脂が乗ってきたというのは陳腐な見方なのかもしれない。確かに江神二郎+学生アリスのシリーズとして『双頭の悪魔』は三作目だが、すでにデビュー三作目というわけではない。しかし少なくとも物語のプロットやロジックを大きなキャンバスに描けるだけのスケールを身につけたとはいえるのではないだろうか。

 【四国山中に孤立する芸術家の村へ行ったまま戻らないマリア。英都大学推理研の一行は大雨のなか村への潜入を図るが、ほどなく橋が濁流に呑まれて交通が途絶。川の両側に分断された江神+マリアと、望月+織田+アリス。双方が殺人事件に巻き込まれ、各々の真相究明が始まるのだったが…。】

 今こうして「新本格」の作家を続けて読んでいるのだが、作品よりもまず作家ありきという姿勢でこのジャンルに臨んでいる。もともと新本格について無知に等しい私は、『葉桜の季節に君を想うこと』の歌野晶午を唯一の例外として、幾人かの作家名だけが先行して頭に入っていたものの、では一体、彼らのどの作品を読むべきなのかということ関してはまったく無防備のままだった。この一連の読書の流れで有栖川有栖はぜひ読むべきであるとわかっていても、有栖川有栖の作品名はまったく知らないというのが実際だった。
 そこでネットなどの情報を辿って「どれを読むべきか」という作業に入る。どんな作家にも成功作と失敗作があるのだろうから、無作為に選んで失敗作を掴んでしまったら私にも作家にも不幸なこと。だから『十角館の殺人』『生首に聞いてみろ』『殺戮にいたる病』『人狼城の恐怖』はすべてそれぞれの作家の代表作といわれるものを読んできたつもりだった。
 有栖川有栖に関して、決め手となったのはネットでの情報ではなく、『人狼城の恐怖』の巻末にて二階堂黎人の「有栖川有栖氏の最高傑作である『双頭の悪魔』と〜」という一文があったことが大きい。これでようやく頭に『双頭の悪魔』という題名がインプットされると、それに付随してこれがシリーズの三作目であり、前二作もそこそこの評判をとっていることが情報として入ってくる(この場合、まったく素の状態で作品とは対峙したいのでレビューや内容を紹介したものからは極力逃げるというのが肝要)。
 ならば『双頭の悪魔』を読む前に、最初の二作から連続して読むという規定路線を敷くことになったのだが、結果として『月光ゲーム』がデビュー作であり、続く『孤島パズル』に瑞々しく出会うことが出来たというのは幸運な流れだったと思っている。
 そしていよいよ『双頭の悪魔』を手にするのみとなり、これが有栖川有栖の「代表作」「最高傑作」という評判をあちらこちらで目にするようになると、さすがに矢も盾もたまらなくなり本屋に駆け込むのだが、これが創元推理文庫の悲しさなのか、なかなか見つけることが出来ず、結局、図書館の蔵書を求めたという経緯を辿り、そこでこの文の冒頭の「まずはその分厚さに目がいった」という顛末となったわけだ。
 …それにしても、ここまでのスペースを使って話を冒頭に戻してしまうのも酷いが(間違いなくこのページは長くなるな)、つまり私は『双頭の悪魔』についてかなりのハードルを上げていたということを書いておきたかった。それだけ前作の『孤島パズル』が素晴らしかったのだ。

 あの夏の孤島で親族が絡む連続殺人事件に遭遇してしまった英都大学推理研究会のマリアが失意の旅に出て、芸術家たちが隠遁する四国山中の集落に迷い込むところから『双頭の悪魔』の事件は始まる。
 700ページを一気に読んだのだが、正直言うと千枚の大作を一気に読ませてしまう筆力は認められるとしても、「代表作」「最高傑作」というほどのインパクトを感じることは出来なかった。もう私の中で有栖川有栖は「夢中で読ませるだけの筆力」という評価の段階は終っている。
 ならばかかり気味になったこちらの勇み足のせいなのかとなると、それもどうなのだろう。本当に力のある作品ならば、受け手のハードルの高さなど一蹴してしまうはずだ。どうもここに至って、あくまでもロジックにこだわる有栖川有栖のスタイルと私の趣向とに微妙な差異が生じ、『孤島パズル』ではシンクロしていたものが、『双頭の悪魔』では接点がずれてきたのではないかと思うのだ。
 この【読書道】ではミステリーのいわゆる“ネタバレ”はしないというルールを設けているので、トリックはもちろん、ロジック、プロットにも過度に踏み込むことは避けているのだが、クローズド・サークルという舞台で江神二郎に託した推理展開が、容疑者を常に論理による消去法で絞り込み「これが可能なのはあの人しかおらんのや」と決着させるスタイルがやや過激になりすぎているのではないだろうか。
 過激といっても江神二郎の推理内容のことではない。今まで二作がそうだったように、もともと犯人が仕掛けた驚天動地のトリックを、名探偵が驚愕の推理力で看破していくという作風ではないので、有栖川有栖のロジックに対する尋常ではないこだわりそのものが過激に思えたのだ。その際たるものとしてこの小説には「読者への挑戦」が三回も繰り出されること。
 私は中学生の時に一度、海外推理小説にはまりかけたことがある。正確には「はまりそこなったことがある」というべきか。そのときに『ノックスの十戒』はもとより、アガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、G・K・チェスタトン、ディクスン・カーなどの作家の名前を一気に憶えたのだが、何故か「世界の名探偵」を紹介した概略本の類を読むのに夢中となり、肝心の作品は読まないという意味不明のことをやっていた。もしそのときに例えばクイーンの「国名シリーズ」などに親しんでいたとすれば、もっとマシなミステリー読みになっていただろうし、「読者への挑戦」などを嬉々として受け入れていたのかもしれない。
 島田荘司『占星術殺人事件』で初めて「読者への挑戦」を目にしたときは、「おおっ、これか!」と思ったものだが、よくよく考えてみれば、およそ物語文学にあって、突如として天からの声が降ってくること自体が可笑しな話ではないか。『月光ゲーム』『孤島パズル』の時は気にならなかったものの、さすがに挑戦状が三度も投げられれば奇異にも思う。
 
 そもそもこの江神+学生アリスの連作は、アリスの記述形式で物語が綴られていた。当然、作家であるアリスが事件を叙述して「読者への挑戦」を投げかけているのだろうと自然に思っていたのだが、この『双頭の悪魔』のようにふたつの舞台でアリスとマリアの記述が相互しながら現在進行の形をとっていると、三度にも及ぶ挑戦状は物語世界に浸りたい読者には、話が分断されてやたらとうるさく感じてしまう。
 そのせいかこの小説には前二作にはあったような余韻が感じられない。どこか物語を分断してまでも論理に特化してしまったことで、豊穣さを失っているようにも思えるのだ。
 最後に明かされる犯行の手口には驚きもしたし、その動機にも納得したのだが、犯人が殺人に至るまでの深層が十分に描きこまれていないのではないか。やはり真犯人の述懐があって然るべきで、江神がドライな推理マシーンになってしまったようで残念でもある。私は物語の論理は好きだが、論理の物語にはあまり興味が湧かないということかもしれない。
 当然これは恋愛小説ではなく本格推理小説なのだから、アリスとマリアが別々の物語を綴っていくことは構わないのだろう。私が好きな有栖川有栖の青春の甘酸っぱいタッチなど、かえって蛇足であるとする読者もいるに違いない。おそらくこんな感想文はミステリマニアには顰蹙を買うだけのことになるのだろうが、アリスとマリアが月夜の海水浴に中原中也の詩を諳んじる名場面に圧倒された口としては、この二人が別々の場所で違う事件に巻き込まれていく展開に少なからず落胆していたような気もする。
 ただ前作では舞台から弾き飛ばされた英都大学推理研のモチさんと信長のコンビが復活したのは嬉しかった。私は川向こうで超然としていた江神よりも、こちら側のドタバタ・コンビが遭遇する事件の決着の方が面白かった。


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