◎Nのために

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◎Nのために
湊かなえ
双葉文庫


 文庫本の裏表紙にはストーリーの紹介に次いで「切なさに満ちた、著者初の純愛ミステリー。」と謳われている。
 これが純愛ミステリーといえるのかどうか「?」は否めないが、少なくとも既読の『告白』『贖罪』『夜行観覧車』に見られたような独白形式の中の剥き出しの悪意は『Nのために』では影を潜めていた。その分だけめくるページが滞ることなくサラっと読めたことは確かだ。

 【超高層マンション「スカイローズガーデン」の一室で、そこに住む野口夫妻の変死体が発見された。現場に居合わせたのは、20代の4人の男女。それぞれの証言は驚くべき真実を明らかにしていく。なぜ夫妻は死んだのか?それぞれが想いを寄せるNとは誰なのか?】

 それにしても相変わらずの湊節だ。湊かなえもそこそこ著作が増えているだろうが、三人称による客観描写には今回もお目にかかれなかった。この作家の全部は知らないのでいい加減なことは書けないが、果たしてそういう「普通の小説」も書いているか気になるところではある。実は『贖罪』の感想で私は以下の苦言じみたことを書いている。
 「一人称の手法として手紙であったり、日記であったり、演説であったりするのだが、だからといって客観描写を一切使わないことの弊害も見えてきたのではないだろうか。(中略)語り手があまりにキャラクターに反して饒舌すぎることと、語り手が入れ替わる際に多少の無理が生じるところが散見されることだろう。なによりも語りによって物語を展開させていくことで、どうしても繋ぎの文章がないためご都合主義に陥りやすい。」
 今にして思えば、数多いる女流ミステリー作家で、湊かなえの湊かなえたる所以に難クセをつけるなど見当違いも甚だしかった。
 そして湊かなえの代名詞となった「イヤミス」という“ジャンル”が人間のダークな悪意をとことん描くのあれば、独白は手法としてひとつの正解ではあるのだと思う。
 この独壇場ともいえるスタイルを確立した稀有な才能に対し「普通の小説」のカテゴリーに嵌めようした四年前の書評は何だったのだろう。
 ただ、湊かなえの筆力の確かさを十分に認めているが故に、違うアプローチの小説も読んでみたいという願望があったのだろう。それはそれで理解できる。
 しかし「それではこの作家の魅力が半減するということであれば、湊かなえもそれまでだと思うのだ。」……これは如何にもいい過ぎだろう。本当に失礼した。

 『Nのために』は、主要な登場人物たちが殺される二人を含め、6人全員がイニシャルにNがつく。そのひとりひとりの別々のNへの思いや、Nへの評価が交錯し、事件の真相が隠蔽されたり一端が明されていく。そんな心理パズルの中にストーリーが展開され、ミステリーが構築されるのだが、上手いと思うのは独白である以上はそこに嘘が介在することはあり得ないだろうと思いきや、最初が事件関係者のひとりとしての証言であるため、必然的に嘘や隠匿が生じている点だろう。まずここで私はまんまとミスリードされてしまうことになる。
 確かに証言や供述である以上、意志によって事実がねじ曲がることもあるだろうし、なにより聞かれないことに答える必要はない。
 さらに巧みなのは、その事件証言で4人のNたちの出自や思考、物語の骨格となる背景、設定を無理なく読者に伝えられていること。そしてそれがまったく自然に語られるのですんなりと物語世界へと入っていけるのだ。
 そして「十年後」にいきなり物語は飛躍する。ここで大きなミスリードのひとつが明かされて驚いてしまうだが、Nのひとり安藤望を女だと思い込んでいたら、実は男だった。それがわかったのはすでに150ページを読み進めてからだった。安藤が男だったと知った途端にまたひとつ別のピースがパズルに加わることになる。読み返して確認すると別に湊かなえが卑怯な手を使ったわけではない。こちらの勝手な思い込み。それにしても「してやられた」。
 独白といっても、例えば杉下希美に自作の小説「灼熱バード」を酷評されたと西崎真人はいうのだが、それはあくまでも西崎目線での希美の言動であり、西崎の憶測にすぎない。事実、希美は「灼熱バード」の理解者であったことを希美本人が独白する。
 心理として、自分の思いや本音をストレートに他人には悟られたくはない。だから独白している本人自身のことと比べ、他者への評価はすべてが憶測であったり、思い違いであったりするので、希美自身と、西崎や成瀬が語る希美とではかなりの温度差が生じる。その温座差を確認していくのも本作のスリリングな点だろう。

 私が「切なさに満ちた、著者初の純愛ミステリー。」という謳いに対して「?」と投げかけたのは、「純愛」のイメージとは違う、他者と一対になりきれない機微の差異を感じたからで、この差異こそが『Nのために』の面白さだと思うのだ。
 「あの時、俺はこう思った」「あの時、わたしはこう感じた」。しかし思ったり感じたりしたことをお互いは憶測でしかわかり合えない。すべてをわかっているのは我々、読者だけなのだ。
 否応なく読者は神の視点になれる。これはある種の快感だ。
 実はそこに湊かなえの独壇場がある。



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