◎カラマーゾフの妹

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◎カラマーゾフの妹
高野史緒
講談社

 好きだった女の子がドストエフスキー『罪と罰』を読んでいたので、対抗して『カラマーゾフの兄弟』を読破した。あれは大学生のときか、もう30年以上も昔の話だ。
 ロシア文学の金字塔といわれる名作に対し、何とも不純な読書動機だったが、内容の細かい部分は忘れてしまったものの、読後の圧倒感の凄さだけは強烈に憶えている。
 何よりも面白かった。とくに犯人が特定できない推理サスペンスの展開から法廷劇へと雪崩れ込み、まるでエンターティメントに触れているような気分から「大審問官」が降臨して訳がわからなくなるまで、これが文学の持つ力なのかと、何か巨大な洗礼を浴びせられた感覚は今も忘れられるものではない。

 【トロヤノフスキーは愕然とした。当時の弁護士は真相まであと一歩というところまで迫っておきながら、最も重要な点を見逃している。極めて重要な、絶対に見逃してはならない点をだ。不可解な「父殺し」から13年。有名すぎる未解決事件に、イワン・カラマーゾフ特別捜査官が挑む。】

 ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の13年後の後日談を企画していたことは初めて知った。ネットで確認したところ、本当にそういう逸話は残されているばかりか、三男のアレクサンダー・カラーゾフは革命の戦士として皇帝暗殺のメンバーとなるとの構想も残されていたという。
 結局、ドストエフスキーの死去によりその企画は幻となったようだが、高野史緒という作家が登場人物たちの13年後を追いながら、続編に挑戦した。それが『カラマーゾフの妹』だ。
 いくら幻の続編という逸話があったにせよ、あの誰もが認める金字塔に対して、文中に散りばめられた事件の謎を解明するという発想のミステリーをものにしたのが、あまたの推理小説家の中で日本人の女性作家だったというのは、かなり凄いことではなかったろうか。
 先日読んだばかりの原田マハ『楽園のカンヴァス』では、アンリ・ルソーの絵にはパブロ・ピカソの下絵が隠されているのではないかという発想から物語を紡いでゆく。まったく女性作家たちの権威に物怖じしない奔放な作劇には驚かされるばかりだ。
 原田マハの場合は対象への畏れと愛情が入り混じったオマージュとして読めたのだが、高野史緒の場合は大胆なことに主体はあくまでもカラマーゾフ事件の全容の記述者として、ドストエフスキーを「前任者」と位置付けているのだから驚く。

 江戸川乱歩賞受賞作。
 選考委員に東野圭吾、京極夏彦、石田衣良、桐野夏生、今野敏というトップランナーたちが揃っており、巻末に各々の選評も記載されているのが楽しい。
 しかし公募による賞であることで、今野敏が本作は受賞すべきではないと反対していることには一理あると思った。
 結局、ミステリーの題材としての可能性を広げたという理由に押し切られたようだが、確かに登場人物から筋書きまで一貫してオリジナリティで臨んでこその乱歩賞なのだろう。
 私も本書の着想には驚いたものの、ドストエフスキーの世界観をサイコキラー、多重人格、フェチズム、トラウマという現代風な道具立てて矮小化してしまったのではないかとの思いを拭い去ることは出来なかった。
 おそらく『カラマーゾフの兄弟』本編を読み返してみれば、本作の巧妙な仕掛けに驚くことはままあるのだろう。(あの巨編を「本編」だの「元ネタ」だのということが、そもそも矮小化ではあるが・・・)
 おそらくプロットの細かいところで「ああ、なるほどな」と手を打つ瞬間も随所に隠されているに違いない。それによって高野史緒の労力も想像力もわかって「素晴らしい」と思うのかも知れない。
 しかしだからといってドストエフスキーを読み返すほどの動機を本作で得られたかといえばそれは違うような気がする。あれを推理小説に特化して再読することは不可能なのだ。

 更にいえば、『カラマーゾフの妹』を読みながら、ロシア革命前の人々の日常や精神風土を感じていたかといえばどうなのだろう。そこにロシアの「生」を感じながら読んではいなかったという結論が残るのではないか。
 「大審問官」は確かにいわれてみれば多重人格がなせる業だったのかもしれない。しかし、あの哲学的命題を多重人格と言い切ってしまうことにこの小説のスケールも知れてしまった気がするのだ。

 複数の選考委員が、本書の着想を褒めながら今後、この手法は余程の傑作でない限りは通用しないと語っているが、それは着想ありきの小説であるという証左ではなかったろうか。


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