◎亜愛一郎の狼狽

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◎亜愛一郎の狼狽
泡坂妻夫
創元推理文庫


 実家のトイレには数冊の本が常備されている。要は用を足す間を持たすための本だなのだか、これがごくたまに帰るたびにまだ健在であるのだから、かれこれ十五年近くはそこに放置されていることになる。
 そこでめくるページは不思議と頭に入り、飽きることなく何度も再読が利くという重宝なものだ。知識の導入が排泄行為と同時に行われることによって体内に好循環をもたらせているという説は眉唾ものにしても、たまに没頭しすぎて足がしびれて便座から立てないこともある。
 「便所本」などと書いてしまうと著作者には申し訳なさ過ぎるのだが、そういう用途の本は決して長編の文学作品などではなく、短いセンテンスに区切られた軽めのエッセイか辞典、薀蓄本の類が最適であるのは当然で(逆にそういうのはトイレ以外では読む気がしない)、それらの本の中に古今東西の「名探偵名鑑」みたいな本があり、泡坂妻夫が創造した名探偵、亜愛一郎のことはその本の中で知った。
 なにせ「あ・あいいちろう」だけに索引順ではトップで紹介されることになるので印象は強い。ところが似非ミステリーファンである私の事前知識はそこまでとなる。本書を手にするまではこの作家も“新・本格派”のカテゴリーであると思い込んでいたのだ。
 それでも泡坂妻夫という名前だけは随分前から頭に引っ掛かっていたと思っていたら、大学時代に観た松田優作主演の『乱れからくり』の原作者だった。1933年生まれということなので、もう喜寿に迫ろうかという作家を大学ミステリー研究会派生組と一緒くたにしていたのは恥以外の何ものでもない。

 【雲や虫など奇妙な写真を専門に撮影する青年カメラマン亜愛一郎は、長身で端麗な顔立ちにもかかわらず、運動神経はまるでなく、グズでドジである。ところがいったん事件に遭遇すると、独特の論理を展開して並外れた推理力を発揮する。】

 本書『亜愛一郎の狼狽』は文庫本サイズで各四十ページほどの連作短編集であり、巻頭収録された『DL2号機事件』は泡坂妻夫の文壇デビュー作品だということらしい。
 一編四十ページのスペースとなると帰りの電車を新宿から乗って家に到着する時間に最適であるため、読むこと自体は苦ではなかったものの、正直にいえばミステリーの短編は苦手なので、私には不向きであることを再認識してしまった読書となった。
 やはりどうしてもトリックよりもドラマに重きを置きたい身としては、例え日常描写やエピソードが冗長で、人間関係が説明過多に陥っていたとしても長編の方が人物造形が理解しやすいので有り難いと思ってしまう。つくづく私は感情移入で作品世界に入る読者なのだと実感してしまう。
 あらゆる短編ミステリーがそうだとは思わないが、トリック描写に特化し勝ちな短編では、得てして登場人物たちの造形が記号的になり、極端にエキセントリックに描かれることが多いような気がするので、私には出てくる人物が全員、役割に応じたかぶり物を纏っているとしか思えない辛さがある。情けないが、もう好みの問題だと逃げるしかない。

 亜愛一郎はかなりの二枚目だが臆病で気が弱く、しばしば珍妙な仕草で周囲を呆然とさせるのだが、意外と喧嘩は強いという掴みどころのない人物。もともと泡坂妻夫も亜の明確なプロファィルを度返しているフシもあり、要はセンスとウィットとエスプリで本格推理を楽しんでくださいということなのだろう。
 全編に共通するのは、常に事件から傍観者である亜が珍妙な犯罪事件を限られた証拠の中から、奇跡的な頭脳で事件を解決するというもので、こういう無駄を省いたトリック主体の趣向に思わず「ニヤリ」となる本格好きも多いのだろう。

 たまにはこういう読後感があってもいいのではないかと納得した。


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