◎椿山課長の七日間

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◎椿山課長の七日間
浅田次郎
朝日文庫


 浅田次郎の名前は当然知っていた。売れている作家なので本屋の平積みでも目にするし、本作も含めて映画化された作品も少なくない。それでも私の場合は読書傾向が偏っているので、最初に手にとるまでのハードルが高い。こういう場合は薦められたり、本そのものを貰ったりすると立派な読書動機が出来る。
 誠にありがたい限りだが、そういう事情がなければこの作品に巡り合うこともなかっただろう。この本の内容ではないが大事なのは縁や絆なのだ。
 
 【働き盛りの46歳で突然死した椿山和昭は、家族に別れを告げるために、美女の肉体を借りて七日間だけ“現世”に舞い戻る!条件は「復讐の禁止」「正体の秘匿」「時間の厳守」だった。】

 相当にひねくれているものの、実にストレートど真ん中をついた人生讃歌だと思った。人が人を愛し、絆を確かめ合うというだけの話を語られたのでは、今さら感動など出来ないように思うが、こういうケレンたっぷりのストーリーに乗せられると、かえって主題が鮮明に浮き出してくるのだから面白い。
 まず「笑い」の持つ意味の大きさに改めて気づかせてくれる。すぐれた小説や映画には必ず「笑い」があるというのが持論だ。これがあるからこそ読者や観客は気持ちを一旦ニュートラルにして、真摯に主題を受け止める準備が出来るのではないだろうか。

 デパートマンとしてグランドバザールという大仕事の渦中に突然の過労で弊れた主人公、椿山課長が迷い込んだのは、この世とあの世の間にある「冥土」の世界。名づけて「スピリッツ・アライバル・センター」、通称“SAC”。このSACの描写はまるで筒井康隆か小林信彦を読んでいるような気分にさせるのだが、ご都合主義満点の「反省ボタン」や「よみがえりキット」など、浅田次郎はカブくところは徹底的にカブきながら、巧みに物語へと読者を誘っていく。
 内容としては「黄泉がえり」の話として、とくに目新しいわけでもなく、死者と生者を絡ませていくことで感動話に持っていきやすい設定ではある。朝倉卓弥『四日間の奇蹟』などにコロっと泣かされてしまう私であるので、この手の話には簡単にスイッチが入ってしまうのだが、意外にも(何度か「うるっ」とはしたものの)涙を流すまでには至らなかった。これは浅田次郎に過剰な「泣かせ」の意図がなかったからではないかと思っている。確かにうわべの涙ですべてを流してしまうはもったいない小説でもある。
 一種の寓話ではあるのだが、椿山の生前の「戦場」だったデパート業界の描写などはかなりのリアルさで描かれており、当の椿山が過労死してしまうのでややシニカルな味わいとなってしまっているが、「真面目に働くことが男の本懐」という生き方には共感する部分が多かった。今の私の体たらくで共感というのは申し訳ないとすれば憧憬だといってもいい。思わぬ死によって投げ出す形となったデパートのセールを覗きにいった椿山が、売上げ予算を達成した理由を「だって課長の弔い合戦ですから」と聞いて感動する場面など、心憎い限りだ。
 ストーリーとしては椿山の他にも誤射で死んだやくざの親分・武田、交通事故に遭った小学二年の雄太も現世によみがえり、三者三様のエピソードが同時進行して、それぞれにたっぷりと「いい話」が用意されてはいる。しかしやくざの親分と少年というだけで彼らの存在こそ寓話そのものになってしまう気がする。もちろんこの三者のエピソードが話の進行の中で巧みに絡んで行くあたりは作者の術中としても、やはり私は年齢の近い椿山への意識が突出してしまったように思う。
 それでも読み始めの当初は、同期入社の椿をずっと愛しながらも、その思いに気がつかなかった佐伯知子への贖罪の話になるのかと予想していた。なにせSACが定義した椿の罪は「邪淫の罪」。現世によみがえってから、早々に愛すべき妻は部下と不倫していたことが発覚し、愛息もどうやら自分の子ではないことを予感した椿は「知子への想い」に目覚めることに話が展開すると思ったのだ。
 しかし浅田次郎は椿と知子の切ないラブストーリーにはしなかった。確かに椿が知子と対決する場面はクライマックスではあるのだが、作者はこのエピソードをすべて知子の独白という形でまとめている。そしてその独白を聞いた椿の胸に去来したのは、ただひたすらの「感謝」の思いだった。

 その知子がいう。“人間は「ありがとう」を忘れたら生きる資格がないんだよ”と。

 椿山をはじめとする三人の濃密なエピソードがあるにもかかわらず、浅田次郎があえて景山五郎という落ちこぼれのヒットマンを詳細に描写するのを不思議に思っていたのだが、最後の最後で氷解した。冥土での三人を客観的に見届ける役割があったのだ。

 この小説は思わぬ形で人生の終焉に遭遇した者たちが「すべての人に“ありがとう”」をいえるまでを描いた物語である。


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