■2019.12 存在証明
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2019.12.01(日)
今日、ようやく喪中ハガキを送った。
母が永眠して4ヶ月になる。
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夏の終わり。
電話を鳴らしても出ないので、
嫌な予感のまま、実家まで駆けつけた。
窓から明かりが見えるも、玄関には鍵が掛けられ、シリンダーも下ろされている。
間違いなく在宅している。外からコール。しかし返事がない。
庭に回って居間の窓から中を覗くと母が仰向けになっている。
力任せに玄関の扉をシリンダーごと引きちぎって中に飛び込む。
母は白目を剥き、口元を血だらけにして倒れている。「ぐふぅぐふぅ」と異常な呼吸音。
出しっぱなしの水道が勢いよく紫蘇の葉を弾いているのは、
おそらく庭から紫蘇を摘んで洗っていた矢先だったのだろう。
救急車を呼ぶ。けたたましいサイレンに近所の人たちが集まってきた。
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搬送先の医大の救命室で説明を受ける。クモ膜下出血だそうだ。
脳梗塞の再発を防ぐため服用していた血液サラサラの薬が仇となったという。
とりあえず呼吸は安定したものの、二度と意識は戻ることはないと告げられる。
当直のイケ好かない若造から「延命処置をされるか決めてください」といわれ、
以前、父が施設に入居するときの同意書の文言と同じだが、それをここで決めるのか。
今、ここにいる身内は私一人。「自然に任せます」と。心臓がドキドキした。
その後ICUに移され、呼吸器とチューブを通して心拍と呼吸音が鳴り響いている。
ここからからほんの数キロ先の病院では奇しくも明日が親父の退院予定日だ。
この8月、呼吸器をつけ、チューブに繋がれた両親を続けて見ることになろうとは。
看護師から「お疲れでしょうから、朝また来てください」といわれる。
真夜中、気持ちを整理しながら、自宅までの道を3キロほど歩いたことと、
帰宅した実家のあまりにガランとした光景の不自然さ。
そのことは今でも鮮明に覚えている。いつまでも忘れられないだろう。
翌朝、電話で呼び出されて病院に戻ったら母は息を引きとっていた。
死に目などに立ち会うのが嫌だったので、少しほっとしたのは罰当たりだろうか。
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しかし親の死に感傷的になっている暇はなかった。
葬儀社との式の段取りを打ち合わせ、新潟の親族への連絡。
施主として従姉妹たちに助けてもらいながら湯灌、通夜、告別式を仕切る間にも、
区役所への届けやら、保険会社への連絡やらに忙殺される。
その間、四十九日直前の仏壇の購入、お悔やみに訪れたご近所の対応、
錆ついていた車庫シャッターの修理やら、台風に飛ばされた屋根の修理依頼やら……。
人生最大級の出費。クレジットカードの利用限度額が早々に超えてしまう中で、
すっかりインフラ化してしまった家計。数十万円単位で飛んでいくのに笑ってしまう。
そんなことより母もまさか親父より先に逝くことなど想像もしていなかったろうから、
何処に何があって、何を何処に仕舞っているのかがさっぱりわからない。
冷蔵庫に放り込まれた食料は、先日一緒に買ったばかりではないか。
預金通帳と銀行カードを探し出し出したのが精一杯で、探し物は今も続いている。
最たるものが庭にぎっしりと埋まっている植木、花、並べられた鉢の山野草。
どうしても手が出せず、雑草が生い茂っていくのを途方に暮れて見つめている。
およそ「終活」という概念からほど遠い母だった。
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そんな中でも湯灌の後に親父を介護タクシーで連れ出し、
母と最後の別れをさせることが出来たのは我ながら良かったと思っている。
ただ綺麗にしてもらった母の姿に「こんな女は知らん」と呟く父に私も同感だった。
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そう遠くない内、「日めくり」に母の死を書くのを脳裏に過らせたことはある。
いや子供の時から母が死ぬ時のことをぼんやり想像してきたのだと思う。
ひとり息子。父は船員で不在がちの我が家にとって、母の存在は大きかった。
30代の終わりあたりで実家から遠ざかったのは、体のいい家出だった。
実際、こうして遅ればせながら母の死を綴っているのであるが、
ここ数年間、会えば喧嘩ばかりしている毎日で、ここでも散々悪口を書いてきた。
今、直近のことを虫食いのままアップしてみて思うことは、
「日めくり」は最重要人物を失ってしまったということ。
大きな喪失感と正直に訪れた少なからぬ解放感。
まだ一度も泣けていないが、スマホにたまっている母からの留守電は聴けていない。
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