■2020.09

日めくり 2020年09月(令和2年)       



2020.09.01(火) 藤川球児、ああ藤川球児、藤川球児

思ったより余裕の表情で引退会見の席に着いた藤川球児。
笑顔を交えながら弁舌爽やかに記者の質問に応えていたのだが、
やはりそこは「泣き虫球児」。涙をこらえて声を詰まらせる場面となる。
会見で言及してはいなかったが、人生で初のサヨナラホームランを浴びたとき、
彼の中で何かが弾け散ったのだと思う。
私も万感の思いで記者会見の中継を見ていた。
藤川球児。何よりも火の玉ストレートの全盛時は本当に神がかっていた。
彼がマウンドに立つということは自動的にアウトが3つ重なり試合が終わる。
スタンドの虎党と呼吸を揃えるようにして見た奪三振ショー。
忘れもしない2007年9月の巨人3連戦。
9-8、2-1、9-8とすべて1点差ゲームをものにした3タテ勝利。
個人的な思いでいえば、私の球場観戦のピークだったと確信する3連戦で、
球児はそのすべての試合を締めくくった。
破顔一笑でナインと握手を交わす球児を称えながら、
東京ドームのスタンドからしみじみ阪神ファンでいることの幸せを噛みしめ、
この男のマウンドを見ていられる時代に心の底から感謝していた。
藤川球児とはそれほどの男だった。


2020.09.02(水) 映画『コリーニ事件』

ストーリーの展開に「?」がついたとき「実話だから仕方がない」との免罪符が欲しい。
馬鹿なことにwikipediaで“コリーニ事件”を探してしまった。
てっきり実話だと思っていた。
もちろん実話の映画化とはいえドキュメンタリーではなくフィクションなのだから、
その狭間を行ったり来たりするのを楽しめればいいのかも知れない。
もちろん実際、ナチによるトスカーナの虐殺はあったし、ドレーヤー法も実在した。
しかし映画のテーマがナチの戦争犯罪とそれを庇護した司法への糾弾だとすると、
物語を構成する人物と背景が、テーマの重さと不釣り合いなほど軽すぎはしなかったか。
「ケバブを売るしかなかったでしょ」はなかなかエッジの効いた台詞だが、
フィクションであるにも関わらず、何故、主人公の弁護士がトルコ系移民としたのか。
映画を観るとドレーヤー法が必ずしもドイツ国民に周知された過去の悪法ではなく、
その法律の検証も十分になされていなかったことが窺えるとなると、
ドイツの戦後処理も礼賛されるほどでもなかったことのように思える。
(そりゃ東西に分断されたのだから仕方ないが)
ただ、それを掘り起こす役目を担う主人公が異人種で良かったのか。
そこはひとつドイツ人のアイデンティを問いたくなろうというものだ。
「弁護を引き受けた被疑者が殺したのは、かつての恩師だった」。
大物実業家の殺害事件に際し、びっくりするほど通俗的な因縁話だ。
さらに被害者の孫とは恋人関係。エンストで寄ったピザ屋にイタリア通の店員がいて、
長年の確執で疎遠だった父親は、実は資料の速読に長けていた。
いやいや少々ご都合を重ねすぎてはいないだろうか。
・・・・などと文句ばかり垂れてきたが、私の趣向として通俗主義は嫌いではなく、
これで映画が面白くなれば大いに結構だとも思っている。
事実、映画はテンポよく進んで、それなりの満足度も得られたのだから良しとすべき。
そもそも観た動機が、フランコ・ネロの健在を確認するためだったではないか。
ただ「実話だから仕方がない」が「原作がそうだから仕方がない」のだとすると、
どうしてももやもやしたものを禁じ得ないのだ。


2020.09.03(木) ipadとスマホ忘れ

未だになんで買ってしまったのか自分でも釈然としないもの。
それはipad。9.7インチ(多分)
そこまで欲しかったわけではないが、一昨年、成り行きで買ってしまった。
旅に出たとき、ノートPCを持ち歩くより便利かもと思ったが、
未だに携行したことはない。
やっていることといったらradiko機能でラジオのタイムフリーを聴くだけ。
ほぼ無用の長物と化しているわけだが、
今夜、ひょんなことで大いに役立ってくれた。
いやひょんなこともなにもスマホをどこかに置き忘れてしまったのだ。
そこでipadの「さがす」機能を使ってみたら、画面のむ地図が藤沢駅で点滅した。
そこにあるのか!
寝呆けて電車に忘れてしまい、終点の藤沢駅まで行ってしまったようだ。
そこでipadからskypで藤沢駅の事務室に電話をかける(これまた便利な)
結局、湘南まで車を飛ばし、気晴らしがてら夜のドライブと相成ったわけだが、
もしや発達障害を疑いたくなるほどスマホ忘れを常とする身には大変ありがたい。
ipad様様で、初めて買ってよかったと思った。
それにしても、、、スマホ忘れ事件は「日めくり」のレギュラーコーナーか。


2020.09.04(金) 遊園地

“Gがかかる”という表現がある。
実は「G」にはなにかしらの漢字が当てられていると思っていたら、
IMEでもATOKでも変換されなかった。「重力加速度」のことらしい。
我々が気軽に過度の「G」を体感しようと思ったら遊園地の絶叫マシンか。
ただ遊園地のアトラクションの大半は苦手だ。
高所恐怖症ゆえにリアルに落下する状況が受け付けないのと、高速も回転もダメ。
だから小学生OKの「へ?こんなのも?」と笑われる乗り物さえパスしてきた。
浅草花屋敷のフライングカーペットで気絶しそうになったこともあるし、
小学生のとき、向ケ丘遊園に親子向けのジェットコースターがあって、
恐怖症を克服しようと一人で密かに挑戦したこともあったが、
こんなものに乗るくらいならお化け屋敷に十回行った方がマシだと思った。
この度、都心の遊園地として94年の歴史を誇る練馬の「としまえん」が閉園した。
たった一度だけ行った。でも誰と行って、何をしたのかはまったく思い出せない。
としまえんを振り返る番組で、親子3代がデートに使ったなどの話が紹介されていたが、
確かに子供ごころに遊園地の非日常の空間にはわくわくしさせるものがある。
幼稚園に入る前のこと、奈良のドリームランドに行った記憶がある。
母は憶えているはずはないというが、絶対にカメのボートに乗って洞窟を潜り抜けた。
実はそれが物ごころついてからの最初の記憶だと思っている。


2020.09.05(土) ふと見れば晴天、気がつけば雨

「女ごころと秋の空」の例えがあるように、ここまで秋の空は目まぐるしいのか、
9月のカレンダーがめくれた瞬間から気候が変わった。
今年は7月一杯まで長雨で、8月になった途端に猛暑が襲ってきたが、
ひと月単位での天候のあまりのメリハリには驚くばかりではある。
さて秋の空が目まぐるしく変わるのは実感するが、「女ごころ」に例えるのはどうか。
「泣いたカラスがもう笑った」というくらいだから、
昔の男たちが、所詮「おんなこども」のことと蔑んだのだろうか。
調べてみた。
室町時代の狂言から江戸時代まで「男心と秋の空」が常套で用いられていたらしい。
色街の遊女が贔屓の旦那相手に愚痴る戯言を想像してしまう。
ついでにイギリスのことわざには、
“A woman's mind and winter wind change often”
季節がずれてあちらでは女ごころを冬の風に例えている。
確かにふった相手への見切りの早さでは到底、女にはかなわない。
別にそんなことを考えながら、強い雨に駅の改札口で呆然としていたわけではないが。


2020.09.06(日) 税理士、お墓、葬儀場、映画

朝の9時半に大和駅で相続の仲介人と税理士と面会。
相続のことなど手に負えないだろうから正式に税理士と契約。
なんと家族の貯金通帳7年分を用意してくれといわれる。
7年分の通帳?あるかそんなもの。
頭をクラクラさせながら、完成したというお墓まで歩く。約20分。
墓石に船員だった父と花好きの母を偲んで「航花」と刻んでもらった。
納骨堂から樹木葬まで考えたが、結局、母の「お墓に入りたい」との意を汲んだ。
正直、もう少しデザイン的に何とかなったような気もしたが、まあこんなものか。
自分の名前が父と共同で「建之」と墓石に刻まれる。
「建之」。なんて読むのだろう。「こんし」「けんし」「けんのう」とも読まれるが、
「これをたつ」または「これをたてる」と読むのが一般的なのだそうだ。
まだまだ知らないことだらけ。
来週の日曜日、父と母のお骨を納めるわけだ。
そこからさらに10分歩いて葬儀場へ四十九日と一周忌の最終段取り。
参列人数が増え、お弁当からお寿司とオードブルに変更する。
このコロナ禍で有り難いことだ。
それから映画を一本観る。
映画館を出たらアスファルトのくぼみに水が溜まっている。
そこそこの雨が降ったのだろう。
1万5千歩も歩いて傘を差さなかったのは幸運だった。
来週の納骨のときも晴れてくれよとセツに祈る。


2020.09.07(日) 映画『人数の町』

エリア外に出たときに襲ってくるサウンドが怖くて秀逸。
ラジオドラマで聴いたらもっと効果的に響いたはずだ。
所謂「ディストピアもの」のジャンルだが、
書店の「映画化コーナー」に原作本がないのが何より嬉しい。
コミック、小説、ラノベと脚本不在で脚色ばかりが蔓延する中、天晴だ。着想も面白い。
しかし展開の乏しさ、人物造形の温さを横に置いて着想のみを褒めるのには限界がある。
ラジオドラマで聴きたいと思った時点でかなり残念だ。
・・・・などとレビューのページでこんな内容のことを書いたのだが、
脚本がオリジナルであることが「天晴」と褒めになる風潮が、そもそも不幸ではないか。
いや、脚本がオリジナルであることが今や「珍」なのだから救われない。
城戸賞はまだシナリオを募集しているのか。まったく注目されてはいないが。
さて『人数の町』だが、多分、私ならいとも簡単に「町」に同化すると思う。
管理もそこまで厳格じゃないし、毎日、享楽に浸ることも出来る。
治験は嫌だが、デモも口コミの上げ下げも、選挙投票も楽そうでいいじゃないか。
仮に脱出に成功したとしても、その瞬間から後悔するに違いない。
もう現実社会で競争に晒されドキドキ・ハラハラする毎日に嫌気がさしてしまった。
そもそも親父が入居していた介護付き住宅だって似たようなものなのだが、
多分、早い段階で自我が分裂して気が狂ってしまう気がする。
もっとも私の年齢だと別エリアの“葬式のない町”に移されるのかも知れない。
そうなったら70年代のデストピア映画『ソイレント・グリーン』の結末になるのか。
ならば、なるべく痛くないように処置してほしいものだ。


2020.09.08(火) アカデミー賞の変革

映画撮影の現場にアメリカ映画芸術科学アカデミーが“縛り”を設けた。
要旨は俳優や制作者らに女性やマイノリティが一定割合いることが条件だという。
[俳優やテーマ] [制作チーム]などの4分野のうち、2分野で基準を満たす必要があり、
具体的には主演や重要な助演に必ず1人は黒人、ヒスパニック、アジア人を起用し、
スタッフには最低でも2人の女性、マイノリティ、LGBT、障碍者がいなければならない。
それを守らなければアカデミー賞のノミネート資格が得られないとのこと。
確かに近年のオスカーは作品、俳優の受賞者が白人に偏っていることが批判されてきた。
さらに豪腕制作者のハーヴェイ・ワインスタインによる長年のセクハラから端を発した、
女優たちの“MeToo”運動や、“Black Lives Matter”運動の過熱も影響されているのか。
ほぼ単一民族という島国の安全地帯に住みながら勝手なことを思うなら、
多様性の自由を目指しながら、かえって不自由なことに縛られないか心配に思う。
ま、実情をいえば、これらの条件の大半はクリアされているとも聞く。
実際、2020年度のアカデミー作品賞は韓国映画だった。
ただ私は連日徹夜続きの「深作組」が「深夜作業組」と自虐する様を面白がっていた。
観客である我々こそがこういう情緒から脱しなければならないか。


2020.09.09(水) 映画『行き止まりの世界に生まれて』

ラストベルトと呼ばれる寂れた街に三人の若者、キアー、ザック、ビン。
それぞれ黒人、白人、アジア人。まさにきっちり人種も多様性だ。
ともにスケボー好き、親から虐待経験あり。
そんな符号を持つ三人が個人映画で揃った状況にまず驚く。
『行き止まりの世界に生まれて』は劇映画ではなくドキュメンタリーなのだ。
そして12年間カメラを回し続けていたことが凄い。
原題“MINDING THE GAP”に対してこの邦題はやや切ないが、
その行き止まりの切羽詰まった感じに共感はするが共有は難しいと思った。
それも一応の安全地帯に身を置いての93分間の共感に過ぎないわけで、
こういう題材に対峙するたびに思うことではある。
ただ、なにより君らには若さがある。残された時間はその人生の何倍もあるではないか。
・・・・などと私も年配者から諭されては苛々してきたのだけど。


2020.09.10(木) 飲食店営業短縮解除へ

ようやく東京都が22までとする飲食店の営業時間短縮を解除するらしい。
ラジオで、改めて3密とは何でしょう?の問いに、
「密輸・密売・密入国」とのトンチ回答に吹き出してしまったが、
飲み屋はともかく、ラーメン屋やハンバーガー屋の22時閉店は意味がわからなかった。
密を避けることと深夜営業の関連性はゼロだ。
牛丼店の客の滞在時間はせいぜい20分もないだろう。
それが19時だろうと、23時だろうと20分は20分。
せいぜい牛丼屋等での酒の提供を自粛させ、回転率を早めさせればよかっただけの話だ。
よほど22時以降の繁華街をゴーストタウン化したかったのだろうか。
自粛期間中の飲食店の打撃たるや想像を絶するものだったに違いないし、
我々も残業などしようものならとんだ夕食難民になってしまう。
そもそも「接待を伴う飲食」とラーメン屋を十把一絡げにしてしまう行政が最悪だった。
「護送船団方式」という悪しき慣例が久々に頭をもたげたコロナ禍の一現象だ。


2020.09.11(金) 映画『宇宙でいちばんあかるい屋根』

中学生つばめを演じた清原果耶が18歳だったと知る。
ならば『あらかじめ失われた恋人たちよ』で波打ち際をのた打っていた、
剥き出しの桃井かおりとほぼ変わらない齢ではないか。
本人の自覚はともかく、時代の象徴でありながら常に時代のひとつ先から、
桃井かおりという人生をマイペースで歩いてきた彼女が、
美少女然とした売り出し中の女優に矜持を与える。
などと妄想好きのオヤジは勝手に映画の流れを予測していたわけだ。
ある意味でその通りの映画であり原作だったのかもしれないが、
ファンタジーではなく、リアルな設定で彼女が若手女優と対峙する映画が見たかった。
いや、べつに清原果耶に脱げといってるわけではない(笑)、今さら裸の映像は要らねぇ。
ことほどさように世代的に桃井かおりへの思い入れが少々過剰になってしまうのだが、
つばめと星ばあの関係が、数多の「若者と老人」の設定を越えるものだったかどうか。
どうも満面のクラゲの中を浮遊する幻想的なCGに埋没しているような気がした。
蛇足ながら、目の前でつばめに泣かれてびっくりした笹川くんが、
おろおろとナフキンを差し出す場面の妙な間がおかしくて秀逸だった。


2020.09.12(土) 久々の実家泊まり

実家の居間には祭壇に父母の骨壺と遺影が二つ並んでいる。
まだ無造作に調度品が放置され、雨戸が閉められ真っ暗な実家に残されて、
週末しか顔を出さず、死んでも親不孝な息子をもって不憫だったが、
母は一年、父は2か月の滞在だったが、ようやくお骨が実家を出る。
さすがにこれが最後なので実家に泊まることにした。
築50年の一軒家も建付けが悪くなり、塗装が剥げ、床が微妙にへこんできた。
なによりも母の自慢だった庭は雑草が生え放題だ。
本当に申し訳ない限りだが、長い間お疲れさん、ありがとう。


2020.09.13(日) 法要― 父四十九日、母一周忌、納骨

コロナ禍で本祭でもないのに18名。
親戚付き合いを欠かさずにいた母のマメさのおかげだったかも知れない。
みんなありがとう。
両親とも無事にお墓に納まった。
これでひと段落つけるかな。
・・・・・とっくにつけていたか。


2020.09.15(火) 最後の夏休み

夏休みは三日間。三連休にしてもよし、任意の日に三日取ってもよし。
だけどその休みは有給休暇から削られる( ノД`)
規定では年間゛20日、有休が使えるのだが、まあそんなに休めるはずもなく、
そのことを不条理だと思ったことは一度もないのだが、
ウチの職場も時代に抗うことは出来ないだろうなと、若い職員を見て思う。
朝の5時に目が覚め、腹が減ったので近くのコンビニで弁当を買い、
グダグダしながら朝ドラを観て、またグダグダしていたら眠くなって、
ひと眠りしたら今度は朝ドラの再放送をやっていて、
夕方に映画でも行くかと思いきや、突然の雨に阻まれる。
昨日の法要まで天気がもってくれたことに感謝しつつ、大相撲中継を観て、
ラーメン屋に行ってまた眠くなり、、、、、
目が覚めたら深夜1時。それから4時近くまでダラダラと。
最後の夏休み、休めたんだか。


2020.09.16(水) 映画『一度も撃ってません』

ハードボイルド?コメディ?否、俺達のファンムービーだ。
阪本順治の目線も煮込めばアイドル映画との見方もある。
こちらの世代からするとちょい不良な兄貴、姉貴たちの宴会。
それを遠巻きから眩し気に眺めていた感覚。
宴会には妻夫木、江口、渋川清彦も、寛一郎と佐藤浩市の親子ですらお呼びでない。
お呼びでないどころか劇中、名前すら憶えてもらえないのに笑ってしまう。
あわれ宴会に乱入してしまった豊悦は小走りに退場するしかなかったか。
おい、なんでお前がそこにいるんだ?新崎人生。なかなか儲け役じゃないか。
地に足ついた役どころの安田・・・いや大楠道代も存在感を見せつける中、
石橋蓮司、岸部一徳、桃井かおり。大人の出来損ないがはしゃぎまくる100分。
ああ桃井かおり。なんで星ばあより先に観ておかなかったのか。
石橋蓮司よ「夜は酒が連れてくる」をもう一度、俺にだけ云ってくれないか。
「なに自虐やってんだよ」と「y」の看板の書き手も苦笑いか。
なによりTVサイズに収まっていた彼らが、映画サイズで蘇生していたことが嬉しい。
この映画に傑作、駄作なんて測りは無粋だろう。
なにしろファンムービーなのだから。


2020.09.17(木) タレ込み屋が原点。石橋蓮司という役者

昨日観た『一度も撃ってません』の石橋蓮司に思いを馳せる。
学生時代『あらかじめ失われた恋人たち』と『赫い髪の女』を観てファンになった。
だが私の石橋蓮司の原点は高校生の時に見た『太陽にほえろ!』のタレ込み屋・有田だ。
山さんの情報屋で、ガセのときは金を受け取り、本ネタでは金をとらない(何故だ)
いつも不機嫌でやたら物に当たる。電柱を殴り、看板を蹴る。それで痛がる(何故だ)
その有田の可笑しさを同級生と語り合ったことまで憶えている。
調べてみたら監督はあの小澤啓一ではないか。ああ、なるほど。
私が東映のパーティで黒木瞳や渡瀬恒彦そっちのけで握手を求めたカツドウ屋だ。
生の石橋蓮司にはヨコハマ映画祭の壇上で見た。高身長だったことに驚いた。
古くから子役をやっていたらしいが、そんなキャリアに見えないところも好きだった。
映画界のアウトサイダーとして、アングラ芝居の臭みをプンプンさせていた頃、
石橋蓮司や蟹江敬三をスクリーンで観るのが楽しみだったのだ。
平成に入ったあたりから石橋蓮司の芝居がテレビサイズになってしまい、
おつむの毛と一緒に淋しい思いをしていたのだが、久々の主役で本領発揮したか。
今、タレ込み屋・有田を演じて、あの雰囲気を出せる役者などいないと断言したい。


2020.09.18(金) 映画『TENET テネット』

ポラロイドとタトゥーを頼りに過去を追体験する19年前の劇場観賞が頭をよぎる。
そうだった『メメント』のときも前半は「変わったことやってんな」と楽しかった。
後半は脳に見舞うあまりの負荷に疲労困憊し、思考停止どころか思考放棄したのだった。
さてコロナ禍で委縮するエンタティメント産業の救世主となるかという最新超大作だ。
オペラハウス襲撃から謎の使命を帯びた主人公が、各地を転々とし要注意人物と接見。
いかにもスパイアクション然とした展開と矢継ぎ早の編集にはワクワク感があった。
そうか007映画の面白さは、こうしてロケ地を見せることで醸成されるのかと得心。
ジェームズ・ボンドはブルックスブラザーズなど着ないとの暗喩(?)も洒落ていた。
さらにオスロ国際空港での金塊投下からの飛行機衝突、隠し金庫潜入から逆行する格闘。
はい、結果的に私が主人公と伴走出来たのはここまででした(苦笑)
劉慈欣の「三体」を読み終えた後の疲労感もこれに近いものがあって、
時間軸逆行のロジックが物理的力学の根拠に基づかれたものならともかく、
ノーランの脳内で創造したレギュレーションに付き合うのが苦痛になってきた。
キューブリックやタルコフスキーならまだしも、ノーランはそこまでの存在ではない。
しまいに逆回転再生をボケ~と眺めていただけで生理的にきつくなってくる。
ただ映画で途方もない世界観を創ってやるという意気込みは十分に伝わる。
その意気込みに応えるためパンフレットの解説を熟考するなり、後からDVDを購入し繰り返し検証するなりはもちろん自由だ。そういう映画の楽しみ方はあってもいい。
でもそれよりまず劇場だろう。ボケ~と眺めていても悔いることはない映画ではあった。


2020.09.19(土) 映画『チィファの手紙』

監督・岩井俊二が2年前に『ラストレター』と同じ脚本で撮り終えていた中国映画。
『ラストレター』はもう一度観たかったので、実にありがたいタイミングだった。
どちらがどうだったかの比較は、ほぼ同じ映画なので意味はないと思うが、
日本版が東日本大震災を隠れモチーフとした岩井俊二の「思い」が色濃く出ていたか。
中国版は脚本を読まずともシノプシス通りに映像を進行させていったことが窺え、
私には馴染みのない中国人俳優を字幕で観ることで、物語に入りやすかったとはいえる。
実は福山雅治、松たか子、広瀬すず、森七菜の並びは賑やだが少々ノイズに感じていた。
岩井俊二映画である以上はスター映画にはなりえない。
映画監督には違いないが、映像作家、映像クリエイターのイメージだった。
さらに神木隆之介は福山雅治にはならないし、森七菜も絶対に松たか子にはならない。
かつて酒井美紀を中山美穂に仕立てた“前科”から一歩も出ていないのは残念だった。
そういえば『小さなおうち』で黒木華が齢をとって倍賞千恵子になった時には呆然とし、
映画をぶち壊す気か?山田洋次!と暗がりで大いに憤っていたことを思い出した。
『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』の見事な四姉妹の変遷を挙げるまでもなく、
日本映画はその点で未だに悲惨だ。観客との「お約束」に胡坐をかいていたままだ。
・・・・話が脱線した。
中国人俳優を知らなかったためか、よほど中国演技陣の層が厚いためなのか、
本作の配役はまあ納得がいったことで、『ラストレター』よりも良かったかも知れない。
あ、結局、比較してしまった。


2020.09.20(日) ところで菅さんのお名前って?

別に明日観る予定の映画のタイトルに因んだわけではない。
とにもかくにも菅総理大臣が誕生したにも関わらず、
私がこの新総理をフルネームで知らないことに「へ?」と思ったわけだ。
物心ついて最初に憶えた首相の名前が佐藤栄作。
それ以来、歴代首相のフルネームくらいは知っているつもりでいたが、
菅さんの名前だけは本気で知らなかった。
過去に菅直人がいたわけだから、区別するため名前が刷り込まれてもいいはずだし、
あれだけ長い間、官房長官を務めていたのだから知らないでは済まされまい。
選挙戦を交えた岸田文雄、石破茂はちゃんと言えるのだ。
義偉(よしひで)という。読み辛い字だが、たった今、憶えた。
皆さんも憶えよう(笑)


2020.09.21(月) 映画『お名前はアドルフ?』

妊娠中の赤ん坊にどんな名前を考えているかを当てることから始まる5人の会話劇。
ドイツの様々な名前が飛び交うのがおかしくて、
そこだけで5者5様のキャラクターが明確になるのがいい。
一部のロケを除いてほぼ食卓のワンシチュエーションものなので、
矢継ぎ早のカット割りや、舞台劇を意識した「引き」の構図になっていないのも好感。
わりとオーソドックスに映画的な構図になっていたので、5人の芸達者ぶりも窺える。
さらにシニカルな議論が思わぬ方向に飛んで罵倒の応酬となり、
マスク越しに声をあげて笑ってしまった。
こういう会話劇の常として、比較的無口だった人間が一番爆弾を抱えているもので、
その爆弾が最後に出てきたときはニヤリだったが、中身は想像を超えるもの。
2転3転した展開を最後に母親への報告としてまとめてくれる親切さ。
おそらく舞台の台本も上手く出来ているのだろう。
最初から女の子とわかっていれば母親の恋も発覚しなかったと思うとまた笑えた。
ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』。オスカル少年が懐かしかったが、
本国ではそれほど有名ではないらしい。


2020.09.22(火) 映画『パブリック 図書館の奇跡』

直截的には「声をあげろ」がテーマなのだろう。
権力に対抗する手段として「全裸になっちゃえば」という選択肢で、
弱者に寄り添う作品となっている。
ただ声をあげた先の弱者からの脱却までには至らないもどかしさも感じてしまう。
ホームレスたちの闘いは決して「持たざる者の抵抗」ではなく、
単に寒風からの一夜の凌ぎに過ぎない。
観客側も「せめてひと晩くらいはなんとかしてやれよ」との思いで映画を観る。
逮捕歴ありのホームレスから図書館の司書にまでなったが結局刑務所に逆戻り。
たかがひと晩の温もりに体を張る主人公の行動に映画的感動を得ているだけだ。
自分が図書館側の人間だとして、ホームレスが大挙押し寄せたらどうするか。
映画には偽善であることを意識させないで慈善者になれる魔力がある。
自由の最後の防波堤としての図書館を象徴したのは、絶滅危惧種のシロクマだったか。
笑える場面もあるが、綺麗ごとでは済まされないシニカルな映画だった。


2020.09.23(水) 映画『mid90s』

青春映画なのだろうが、主人公の少年スティービーはどう見ても子供だ。
子供ゆえ悔しいかな兄の圧倒的な力にやられっぱなし、早く大きくなってやり返したい。
私に兄はいないが年上に対する羨望や妬みは誰もが経験することではないか。
それは体力だけではなく、彼らが興ずるファッションやカルチャーにおいても。
そんなスティービーは不良なスケボーグループとつるむことになる。
初めて触れる家族以外の「社会」。ここでも強烈に感じる仲間同士のヒエラルキー。
そして場合によって、ここから非行少年が生まれる。
忘れられないのが高校生のときに通学途中で見かけた光景。
他校の生徒同士の話で、当時でいう “つっばり” 集団の内のひとりが、
中学時代に仲間だったグループと出くわし「おお〇〇じゃんかよ」と当時のあだ名で呼ばれたことに逆上し「てめぇ、うるせぇんだよ!」と凄んでいたのを見た。
指を差したグループは所謂普通の坊ちゃん集団だったものだから、高校でつっぱりデビューした少年はつっぱり仲間の手前、引くに引けなくなったのだろう。
とくに男子高校生ならこういうことはいくらでもあるし、気持ちもわかる。
だからスティービーより少し年上の少年が、やたら不良ぶりを誇示して見せるのもわかるし、後輩のスティービーの方が先輩に可愛がられるのに焦っていく気持ちもわかる。
そしてスティービーも「こいつ嘘ばっかり、大したことねーじゃん」とわかってしまう。
その気づきが自分の兄にも及ぶとなるとなおさらで、つっぱり仲間に気圧される兄の姿にどこか留飲まで下げながら、人間関係に揉まれていくのではないか。
ことほどさように仲間内のヒエラルキーはヒリヒリと痛く、その描写がなんとも秀逸だ。
そして差し当たってひとりを「追い抜いた」ことでスティービーの調子こきは加速し、
スケボーで無謀をやらかし、酒とドラッグのパーティに参加していく。
この「仲間に一目置かれたい病」はまさに危なっかしさ満点だ。
なにせ見た目は子供でも兄を追い抜くいう壮大な目標があるのだ。
もうこうなると一番気が気でないのが母親だろう。それがラストにつながっていく。
映画に選曲されたヒップホップにもっと反応出来たならと思った。
ラップに詳しい人には、兄の部屋にあるポスター、CD、カセット、雑誌、シャツなど、
ジョナ・ヒルがいかに映画に時代を寄せるかの作業にこだわったのかがわかるらしい。
いや別にこれらの小道具の意味がわからずとも、十分に観賞が成り立つ映画なのだが、
作り手の映画に賭ける情熱を可視化出来る、出来ないは、わりと重要だと思うのだ。
例えば主人公が部屋で観ている映画が何であるのかで、思い入れが変わることがある。
小道具ひとつに登場人物たちの性格やこだわりが察せられれば当然、見方も深くなる。
もちろんそんなことは知らないフラットな観客にわからせるのも映画の使命でもあるのだろうが、少なくともこの映画に関しては音楽への理解が及ばないことが悔しかった。
なにせ90年代の大半をレンタルビデオとCDの売場で過ごしていたのだから、
こっち方面のアンテナを伸ばしたければいくらでも伸ばせたはずだった。
ただそれと相反するようなエンディングの静かな旋律に、これもグラフィティものなのだと感じたとき、90年代の空気感をまるで知らないことに愕然とした。
ちょっとおぼろ気だが60年代、個人的に最高の70年代、バブルに浮いた80年代。
自分なりに時代に寄り添えたのはここまでで、それ以降は日々を過ごしながら時代の空気を吸っているという自覚が皆無だった。
そうか過去であったはずのこの30年は今も未知の領域だったのだ。
さて90年代にはスケボー以外にどんな時代のアイコンがあったのだろうか。
そんなことを思わせてくれたなかなかの一本だった。

                           

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