■2020.08
日めくり 2020年08月(令和2年) ◄►
2020.08.01(土) ヨコマハ行
メインは黄金町とみなとみらいの映画館なのだが、
実に久々、横浜らしい横浜を歩く。
中央林間のアパートから横浜港までは新宿、渋谷より所要時間がかかる。
それで横浜の中心街にはスタジアムで観戦するときくらいしか行かなくなっていた。
京急の横浜駅の発車メロディは「ブルーライトヨコハマ」だった。うっ、ダサ。
黄金町で下車。以前は横浜駅から電車賃を浮かせるためここまで歩いたものだ。
「以前は」と書いたが、以前も以前、もう40年も前の話ではある。
ここら辺り、大岡川沿いに「ちょんの間」と呼ばれる売春宿が軒を並べていた。
おそらく平成の中頃まで健在だったはず。とにかくディープな横浜といえばここ。
黒澤明の『天国と地獄』に出てくる売春窟はこの街を舞台としていたが、
何年か前、県警の大規模な一斉浄化があり、街並みはガラッと変わった。
新築のマンションが林立する中、お目当ての横浜シネマジャック&ベティに行く。
ここも28年ぶり。よく通っていた浪人時代は横浜東映名画座だった。
隣に横浜大勝館、向かいに横浜日劇、千代田劇場があり、映画街を形成していたが、
今は横浜のミニシアターの代表格となったこの映画館だけになってしまった。
観たのは又吉直樹原作、行定勲監督の『劇場』。
もう還暦前の安い涙腺が決壊して困ったが、わりと好きな映画だった。
いつもながら松岡茉優がいい。山崎賢人も頑張ってはいたがやや見劣りは否めない。
おそらく菅田将暉か池松壮亮なら今年のベスト級になったかもしれない。
映画館を出て、見知らぬ街なのか懐かしい街なのかよくわからない界隈を歩き、
鎌倉街道に出る。この角にオデヲン座があり、隣に横浜東映、日活シネマ。
横浜日活では24時間フィルムマラソンを完走した思い出があり、
横浜東映では『最後の博徒』を親父と観に行った。
そして鎌倉街道沿いには横浜松竹、横浜ピカデリーがあった。
そうだピカデリーで『八つ墓村』を観たのが家族と行った最後の映画だった。
実景に記憶を重ねて当時の面影を探してみるが、様変わりした街では限界がある。
でも『ジョーズ』の時は舗道のあそこら辺まで列が出来ていたと見当はつく。
思わず伊勢佐木町の有隣堂本店で、昭和の横浜の写真集をめくってしまった。
それから馬車道に出て勝烈庵本店で定番のとんかつを食べる。
職場の仲間とたまにヒレカツ×ロースカツ論争が勃発する際、
私が断然ヒレカツを推す根拠はここの勝烈定食にある。もはやソウルフードだ。
馬車道から大桟橋方面に方向を変え、みなとみらいを目指す。
私がほっつき歩いていた頃には存在すらしていなったエリア。
ショッピングモールと公園、インテリジェンスなオフィスビル。
あの頃、赤レンガ倉庫は単なる倉庫だったし、ドックとコンテナしかなかった。
もはやここら辺りを歩く姿は普通にお上りさんだ。
Kinocinemaという去年オープンした真新しい映画館に入る。
大林宣彦監督の遺作『海辺の映画館~キネマの玉手箱』を観る。
渾身の3時間。途轍もない熱量を全身に浴びて頭がボーとなって映画館を出る。
作品についてはどこかの機会で書くことにしよう。
夜の帳が下りて、煌めく運河を眺めながら横浜駅まで歩く。
実はみなとみらいから横浜駅まで歩けることを初めて知る。
見知らぬショッピングセンターに見知らぬレストラン。
何もかもが新しくピカピカしたイルミネーションに眩暈が起きそうになりながら、
かつて横浜そごうのバルコニーからドック越しの横浜港を眺めていたことを思い出す。
そのドッグがどかされて街が出来ていたなどずっと知らなかった。
お上りさん気分にちょっと懐かしみを感じながら歩いた1万5千歩。
きっと誰かを案内するとき、通みたいな顔をして歩くのだろうか。
2020.08.02(日) 法要の打ち合わせ
父の四十九日と母の一周忌を兼ねることは決めていたが、
お墓が完成するのが9月4日。
その2日後の納骨は日程が狭すぎると躊躇し、9月の13日に法要を行うことにした。
四十九日も一周忌もオーバーしてしまうが、世の中が安定していなので仕方がない。
こうなると頼りになるのは葬儀場の担当者だ。
こちらはいくらお客様とはいえ、慣れないことが多い中、またお世話になる。
葬儀場の帰りに売約している管理事務所へ日程の手続きに寄る。
結局、段取りに次ぐ段取りの中では親の死への悼みなど入り込む余地もないのか。
それ以上に、福沢諭吉が羽根を生やして飛び去って行くのを呆然と眺めるのみだ。
2020.08.03(月) 照ノ富士、優勝ありがとう
大相撲夏場所の賜杯を手にしたのは幕尻の照ノ富士だった。
もちろん幕尻とはいえ元大関。優勝は五年ぶりのこと。
ところで館内の周囲に飾られる「優勝写真額」は四方8枚ずづ38枚。
約五年で入れ替わるそうなので、五年前の照ノ富士の雄姿もギリギリ飾られている。
その写真額の下で序二段に落ちて相撲を取っていたのはさぞ屈辱だったろう。
屈辱というより地獄だったかもしれない。
観客もまばらな朝の土俵から自分の写真額を見上げたこともあったろう。
三役に上がったのも早かったが、優勝したのも早かった。あっという間に大関。
これは一年待たずして横綱になるのは当然だろうと誰もが思っていた。
ご多聞に漏れず度重なる怪我と糖尿と内臓疾患。数度に渡る手術。
ジリジリと番付を下げたのではなく、いきなり振り出しに戻された男は、
優勝インタビューに応えながら謙虚に周囲への感謝を淡々と述べていた。
そこには五年前の傲慢なくらいの自信の漲りは微塵もなく、
地獄を見た28歳の力士の老成した境地を感じずにはいられなかった。
それでも序二段からの復活はセンセーショナルすぎる。
怪我と向き合うのではなく怪我に付き合うと語った照ノ富士に、
さらに波乱万丈の土俵人生が待っているだろう、大いに注目したい。
2020.08.04(火) 映画『アルプススタンドのはしの方』
21時半の開始回でも、上映75分のタイトさが有り難く、
車を飛ばして座間のイオンシネマに駆けつけた。
高校演劇の全国大会を制した兵庫県立東播磨高校の演劇台本の映画化ということ。
三行の映画評ではこんなことを書いた。
「(前略)あからさまに説明ゼリフだったり小芝居だったり人物の掘り下げが甘かったりと、色んな局面で大目に見た自覚がありつつ、あれだけ不愉快だった厚木先生の「声を出せ!」の連発があすはやひかる、藤野たちと次第に同化して最後は前のめりになって姿なきヤノを応援していた自分(笑)。」
そう映画としての完成度は決して高いわけではないと思った。
完成度などとざっくり書いてしまったが、
舞台となるのは甲子園のアルプススタンドでも、ロケは明らかに地方球場のスタンド。
「アルプススタンドの~」とタイトル付けがされている以上は、
主体となる背景は最低でもリアルに見せるのが映画なのだとは思う。
(因みにアルプススタンドの呼称は甲子園球場のみに使われている)
しかし実際に甲子園のアルプルスタンドにエキストラを集めて撮影したらどうか。
答えは否だ。映画として絵になっても、作品のリアリティが著しく損なわれたと思う。
「大目に見る」。前提となるお約束事を納得することに抵抗を感じさせない映画で、
観客にここまでの境地にさせる映画は実は珍しいのではないだろうか。
この映画のリアリティは高校演劇がベースになっているにことに他ならない。
高校演劇を揶揄しているつもりはないし、チープなのは仕方ないとも思っていないが、
高校演劇を映像化した映画であるというのは最大のウリであるのは間違いなく、
だから作り手は「この映画は高校演劇です」とアピールする必要があった。
「説明ゼリフ」「人物の掘り下げの甘さ」もワンシチュエーションならではことで、
実はそれが良かったのだと、観賞後、数時間が経過した今は思う。
あすは、ひかる、藤野、宮下の4人がスタンドの片隅で織りなす会話劇。
「しょうがない」「しょうがなくない!」が図らずも問われる時世になってしまい、
意図を越えて社会にメッセージを投げかけることになってしまったが、
このタイミングでこの映画が公開された意義は、天の配剤かもしれない。
ただ私は映画が高校演劇である前提で作られていることにこだわりたいと思う。
若い演者と作り手たちが試行錯誤しながら撮った手作りの映画だと思っていたところ、
監督の城定秀夫はピンク映画も含めキャリア100本以上の職人監督だと知る。
次々とオファーが舞い込むのはクライアントの意志を的確に読み取る能力が要る。
おそらく「いかに映画らしくするか」ではなく「いかに高校演劇らしさを残すか」。
手練れた監督はそこに映画の完成形を見出したのではないかと想像している。
兵庫県立東播磨高校の演劇部の顧問の先生が台本を書き、
生徒たちがそれを一所懸命に演じ、全国大会で優勝した熱量まで含めて、
この高校演劇『アルプススタンドのはしの方』を愛おしく思えてしまうのだ。
そのことを近々のうちにもう一度確認してこようかと思っている。
2020.08.05(水) にしても暑い
長梅雨が明けた途端に猛暑が続く。
どこもかしこもエアコンがフル稼働なのはいいが、
汗でびしょびしょに濡れたマスクをして歩くのはさすがにつらい。
ドラッグストアで冷感マスクが売られているが、効果はいかほどか。
気温も上がり、感染者数も上がり、なんて住みにくい世の中だ。
道端ではアブラゼミが石灰化した腹を向けてひっくり返っている。
8月に入ってからいうのもなんだが、
日本からはもう「初夏」という風物詩は消えたようだ。
2020.08.06(木) 耳が膿んだ・・・
ものもらい(結膜炎)がようやく引いたと思ったら、
今度は耳から血が出た。
耳かきをやって傷をつけてしまい、そのかさぶたを何度か剥がしていたのだ。
耳かきもかさぶた剥がしも自業自得はいえ、綿棒で探ったらべったりと血膿が。
だからというわけではないが、聴力の衰えも感じる。とくに左耳。
体温計の“ピピっ”が聞こえない。
事務所の内線の呼び出しが聞こえず、隣から「鳴っているよ」といわれる。
またひとつ「勘弁してくれよ」が増えた。
2020.08.07(金) 仕事帰りに映画2本
ふくだももこ監督のリモートでのティーチイン付きで『君が世界のはじまり』と、
岩井俊二がリモートで製作した『8日で死んだ怪獣の12日の物語』を観る。
学生時代のテアトル新宿は2本立ての名画座だったが、
今は入れ替えの邦画封切館になった。ただこの映画館は発信力を持っている。
残念ながら両作とも私の評価は今イチ。
テキトーに作って取って出ししたような岩井俊二はともかく、
ふくだももこ作品は評価が分かれそうな映画ではあった。
大阪の高校生たちのわりとトーンが低めの青春映画で、力作ではあったと思う。
ただ閉店後のショッピングモールを占拠して彼らが勝手に楽器を演奏するのが、
ブルーハーツの「人にやさしく」。もう30年前の曲だ。
確かにこのバンドの普遍性は認めるところだが、
今の等身大の高校生たちが閉塞感をぶち破る発露として、この選曲でいいのか。
と思ったら、今いちばん気になっている『アルプススタンドのはしの方』で、
エースの園田君のテーマ曲であるブラバン演奏も「トレイントレイン」。
どちらも高校生が自分を鼓舞する曲としてブルーハーツが使われているのは、
単なる偶然だろうか。・・・・・偶然だろうが。
2020.08.08(土) 役所に行ったのはいいが
日本年金機構の相談センターに行く。
いや別に「相談ごと」があったわけではない。
単に親父に支給されていた年金を止めるための手続きに出掛けたわけだ。
「死亡による資格停止なので止めてください」というだけの話だが、
何種類ものペーパーに親父の名前、自分の名前、住所を書かされ、判を押した。
年金を寄越せとか、額が変だろとか文句を垂れに出向いたわけではない。
善良なる市民の義務として「もう戴かなくて結構ですよ」といったつもりだが、
わざわざ新潟から戸籍謄本を取り寄せ、個人番号つきの住民票も取り寄せた。
善良なる市民と書いたが、年金は国の事業だから、ここでは「善良なる国民」か。
地方自治体と国。機関が違えば場所も違うのはわかるとしても、
政令都市なのだから区役所に分室を設けるなど出来ないものか。
保険と年金はセットだと思っていたので、あちこち動くのは本当に面倒臭い。
窓口が分かれるのであれば、せめて提出書類だけ一本化・・・・
いや、すでに戸籍からも住民票からも除名されているのだから、
親父が亡くなった事実など、端末を見れば一目瞭然のはずなのだ。
これは去年、母の手続きでも痛感したことではある。
ところがその母の年金が未だに支払われていたという。
もちろん専業主婦の国民年金の支給など大した額ではないのだが、
一年も貯まれば20万程度の額となる。
ちょっと待ってもらいたい。去年、間違いなく手続したはずだ。
年金機構の窓口担当は「お手を煩わせてすいません“上”に報告しておきます」
恐縮しつつも今度は過払いの返済手続きの書類に署名、捺印だ。
そりゃ多くもらったものは返すが、はっきり徒労以外の何ものでもない。
死亡届も提出済みで、(しつこいようだが)戸籍からも抜かれている人間に、
惰性のように年金が支給されている。
これがよくいわれる「縦割り行政の弊害」という奴かいな。
心の底から勘弁願いたい。
2020.08.09(日) 「しょうがない」をちゃんと悔しがること
時を置かずしてまた『アルプススタンドのはしの方』を観る。
観終わった瞬間、すぐに観たくなるのは『カメラを止めるな!』の時と似ている。
今回はスタンドの4人の立ち位置、カメラ移動、背景の風の強弱、
そして前回は見落とした4人の微妙な表情の変化を観察しようと思ったが、
そんなものはあっという間に忘れ、彼らの会話劇に入り込んでしまい、
今度は早い段階から涙腺が決壊してくるのを止められなかった。
いよいよ還暦まで半年切ったオヤジが高校生の話に泣いてんじゃねぇよと思うが、
このコロナ禍、世界中で囁かれたであろう「しょうがないよ」の言葉。
そこをちゃんと悔しがれたかどうかは、今後の人生に大きく影響されるはずだ。
なんともとてつもなく大きなテーマをはらんだ映画になってしまった。
2020.08.10(月) なんかいろいろダメだな
齢とともに休日をのんべんだらりと過ごすことに抵抗を覚えるようになった。
しかし結果的にのんべんだらりと過ごしてしまい激しく後悔する。
あまり後悔ばかりしていられないから今日一日で何か進んだことを考えてみる。
1.「お仏壇のはせがわ」に完成した親父の位牌を受け取りに行く。
2.母と親父の貯金通帳に残高を記帳する。
3.床屋に行って、とりあえず頭をさっぱりさせる。
こんなものか。これでもそこそこ寝不足は解消したので良しとする。
本当は香典の返礼のリストを一覧に記すため「コメダ珈琲」に入ったのだが、
コーヒーを一杯飲んだだけで終わってしまった。
全面禁煙となると喫茶店でものを書く気がしなくなることがよくわかった。
2020.08.11(火) 最近、多摩川を渡った記憶がない
20代の頃まで、電車のシートで寝ているサラリーマンが不思議でならなかった。
たまに飲み会帰りに、つい寝てしまって駅を乗り過ごすことはあったが、
とにかく昔は電車で寝ることなど出来なかった。
それが今ではどうだ。始発の新宿から発車前に寝てしまうこともある。
40代あたりから顕著となり、還暦前の今は呆れるほど寝つきがよくなり、
多摩川の鉄橋を渡るのを車窓から眺めることなど殆どなくなった。
さらに最近とみに感じるのが眠気を感じてから寝入るまでの早さ。
それで変な時間に目が覚め、慢性寝不足で日がなボ~としている。
電車で爆睡などというが、おそらく仮眠にすぎないだろうから、
生活睡眠のリズムを乱しているだけの話。やはり始発乗車がいけないのか。
いや別に始発乗車でも座らなければいいだけのことではあるのだが。
2020.08.12(水) もう35年経つのか
阪神淡路から25年、終戦から75年。広島、長崎の原爆からも75年。
今日は日航機事故から35年。
いろいろと節目の年だが、御巣鷹山への慰霊は遺族に留めるという。
35年前の夏。外回りの仕事が長引いて深夜となり、
秩父の山奥でカーラジオから乗客名簿を読み上げるアナウンサーの声を聴いていた。
それが次第にお経の響きに聞こえて怖くなったことを思い出す。
不謹慎かも知れないが日航機事故から〇〇年と聞くと、
反射的にあの阪神優勝から〇〇年経つのかと思う虎党も多いだろう。
球団社長の中埜肇氏も犠牲者の一人だった。
山口組・一和会の抗争、ロス疑惑、豊田商事事件、グリコ森永事件。
私は80年代全般を本当にクソみたいな年代だと思っているが、
1985年だけは妙に熱かったと記憶している。
2020.08.13(水) 横山秀夫『ノースライト』完読
図書館に予約して何ヶ月も待たされていた。
横山秀夫、待望の新刊だ。
いや「待望」してたなら買えよ、という話だろうが、
このところ完読した本の置き場に困っている。
とっとと売ってしまうのも手だが、それはそれで蔵書への葛藤に悩まされる。
新刊本を図書館で借りる。作家にも出版業界にもまったく得にならない行為。
しかし予約した本を待つ数か月は今の私にはまったく苦ではなく、
返却期限を設定されることで読書への集中を促されたいとすら思っているのだ。
情けない話、私の読書への“訴求”は現状、この程度だ。
しかしなによりも横山秀夫『ノースライト』は素晴らしかった。
例によって筆圧の強さ、緻密さ、構成力。
そして明らかに他と一線を画す大胆さ。
ここで細かいことは書かないが、例えば冒頭でこんな文章が綴られる。
「デッキで携帯を開いた/日向子はまだ家だろうが、PHSの番号に掛けた/何度目かのコールで繋がった/少し遅れると早口で告げ、わかった、の返事に耳を澄まして電話を切った/短い息をつく/月に一度の父子面会。」
物語を通してみてもここでの父と娘のやり取りはかなり重要だ。
それをセリフに間をとるでもなく、ふたりの情感の揺らぎを描写するでもなく、
単に短いセンテンスの状況説明で終わらせてしまう。
しかしそのあとにつけ足される「強火で豆を煮るような時間が待っている。」
これだ。この「省き」。手練れのベテラン作家の真髄だとしかいいようがなく、
これから横山秀夫を読むのだとの思いが一気に高まっていく。
次に新作が出たら絶対に買うと誓うことで、図書館で借りた贖罪になればいいが。
2020.08.14(金) 安らかに、渡哲也
♪流れ果てない旅に出て~ いつか忘れた東京の~
泣いてくれるな夜の雨~ おとこ命は赤く散る あゝ東京流れ者~
浅草花月、新宿昭和館、上板東映、ヨコハマニュース劇場、川崎国際、江東地下・・・・・。
今はなき名画座で何度となく渡哲也を観てきた。
決してテレビで演じていた軍団の長ではなく、スクリーンでの一匹狼。
「大笑い、三十年のバカ騒ぎ」どころの歳月ではなく、
10代から20代まで、何度、出っ腹にドスを刺され、脳天を弾かれてきたことか。
あゝ 渡哲也。。。。今更、何をいわんか、だ。
2020.08.16(日) お香典返しのリスト記入
いただいたお香典の返礼品のリストをやっと書き上げた。
このタイミングだと四十九日まで届くかどうか。
作業は単に名前と住所を一覧にし、葬儀会館に提出するだけの話なのだが、
これがなかなか遅々として進まなかった。
早々とExcelでリストは作っていた。
それをリストに書き写すことが億劫でならなかったのだ。
単に返礼品のカタログを金額に応じて振り分けるだけのことでも、
手書きへのハードルが異常に高くなっている。
もちろんキーボードを叩けば済む時代など望んでいないのだが。
2020.08.15(土) 俺ら首都圏人はバイ菌かい
予想していたとはいえコロナウィルスの感染者数が止まらない。
緊急事態宣言もGO TO キャンペーンも各都道府県で対応がバラバラ。
各知事のコメントもバラバラ。国会は相変わらず閉会中。
お盆休暇に入り、日本列島のバラバラぶりがさらに加速している。
こうもバラバラだと自己責任論が出てくるのも仕方ないかもしれないが、
引き止められるのを振り切って紛争地域に取材に出掛けるのと違い、
問題は感染症であるのだから、簡単に自己責任で片づけられるものではない。
一方、我々、首都圏人は毎日のように出勤し、毎日のように食堂で昼飯を食べ、
職場で3密しながら、当たり前のように電車で帰宅する。
むしろインフラを整備して、すべてリモートで済ませられる企業は限られる筈だ。
そんな我々が自己責任を負わされている自覚があるかといえば、それはない。
せいぜい炎天下の中、マスクを汗びしょにしながら糊口を凌ぐだけ。
東京でコロナ感染が300人だ400人だといわれても大して気にすることもなく、
「今日は多いな、少ないな」と鈍く反応するだけの話。
要は食っていかなきゃならないし、この状況にも慣れてしまったのだ。
身近に感染者が出たら、その時はその時。とても決死の覚悟などしていない。
ところが父の葬儀の際し、新潟の親戚たちの反応には少なからず驚かされた。
まさか誰一人も参列しないなどと考えてもいなかった。
青森で帰省者に投げ込まれた「心ない」ビラが話題となったが、
地方と首都圏のこの温度差の突拍子のなさにはもう呆れ果てるしかない。
彼らにとって我々はもはやバイ菌の中で生きる奇特な人たちなのだろう。
でも夏休みが短縮された小学生たちですら普通に通学しているのだよ。
……確かに救いようのないくらい日本列島はバラバラだ。
2020.08.17(月) 「手書き」のこと
一昨日のお香典返礼リスト書きについての続き。
もともと筆まめを自慢していた頃もあった。
指にこさえて膨らんだペンダコも自慢だった。
カチンカチンに固まった指先に、火のついた煙草を押し付けても平気だったし、
インクを使い切ったボールペンを束にして集めていたこともあった。
それがどうしてここまでの筆不精となってしまったのか。
気分を変えて喫茶店で書こうとしても、煙草を吸いたくなって苛々する。
出来れば葬儀会館のメールフォームにExcelを添付して送信したかった。
それで本来の目的は達するはずなのだと心の中でどれだけボヤいたことか。
それよりも何よりも、老眼がそれを拒む一番の原因。
私の目の標準焦点は完全にパソコンのモニターとスマホ画面に合わされている。
その慣れのなかで手書きなり読書なりに焦点が合わない。必然として肩も凝る。
結膜炎が完治しない状態で、役所の書類を含め何度、氏名と住所を書かされたことか。
それでもすっかりぷよぷよしている人差し指にペンダコを復活させたい思いはある。
今でも文房具屋を覗いては書きやすそうなボールペンを物色し、
三菱UNIの「JETSTREAM」とセブラの「blen」の書き味を比べてみたりもする。
もう一度繰り返す。
キーボードを叩けば済む時代など望んでいないのだ。
2020.08.18(火) ドヌーブとマストロヤンニ
中学の時、よく聴いていた深夜放送「愛川欽也のパック・イン・ミュージック」。
そこに「カトリーヌコーナー」というコーナーがあった。
リスナーがカトリーヌを名乗り、恋人のマルチェロ宛に架空のラブレターを綴る。
音源がYouTubeに残っていたので久々に聴いてみた。
今聴くと、リスナーの投稿レベルが驚くほど高い。
ミシェル・ルグランの名曲に乗せて登場する男と女、カトリーヌとマルチェロ。
もちろんモチーフはカトリーヌ・ドヌーブとマルチェロ・マストロヤンニ。
そのふたりの間に産まれたキアナ・マストロヤンニの映画を観る。
ヨーロッパを代表する美男美女の名優を両親に持ちながら、
キアラは個性的な顔立ちで、どちらかといえばクセのある演技派なのか。
寺島しのぶが若いころ、あの両親なのに何故?といわれ続け悩んだと聞くが、
今や大女優の道を着々と歩んでいる。キアラもそんなタイプだろう。
ただ恥ずべきはキアナという女優を『今宵、212号室で』を観るまで知らなかったこと。
いやドヌーブとマストロヤンニが愛人関係であったことも、
その間に娘をもうけていたことも知らなかった。
ドヌーブとマストロヤンニが共演した『モン・パリ』の封切り看板は見ていたのに。
そんなことを思い浮かべているうちに映画は終わってしまった(;’∀’)
2020.08.19(水) 改めて、何なんだこの暑さ
子供のころ「酷暑」なんて言葉はあったろうか。
ニュースでは「命の危険を感じる暑さ」という。
熱中症の死亡者数がコロナウィルスの死亡者数を軽く凌駕する。
地方では40度越えも出て、首都圏は35度に収まっているが、
緑も木陰もないビルとアスファルトの池袋だから体感はもっと高い。
何より“もあ~”と身体にまとわりつく熱い湿気がたまらない。
バイクで納品にきたメーカーさんは、熱風で死にそうだったという。
身体がだるい、眠たい、どう考えてもバテている。
でも食欲は落ちない、むしろ過食気味だ。どう考えてもデブっている。
何故だ!
2020.08.20(木) 残業続き
夏季休暇に入った上司の分の仕事を受け持つ。
生来の要領の悪さに身体のだるさと眠気も手伝って残業が続く。
就業時間が終わってしまうと替わってくれる奴なんかいないのだから、
仕事が終わらなければ職場に残る。別にどうこういう話ではない。
残業手当を請求するわけではなく、いいじゃねぇかと思うのだが、
今や大企業さん並みに残業がやり辛くなっている。そういう時代なのだ。
ちっぽけな社団法人なのだから、やるときは今やらな仕方がない。
日本は大企業が0.3%、中小企業が99.7%。
従業員が5名以下の零細は全企業数の9割弱。そこが雇用の1/4を占めている。
とりわけ我々の業界など零細企業と個人事業主の集合体だ。
前提として、政府やメディアが喧伝する「働き方改革」の埒外にある業界だ。
世の中の仕組みが年功序列から能力主義へ移行するのはいいだろうが、
そんな仕組みと世論の形成が0.3%の大企業をベースにしているのはどうなのか。
大企業を基本に比較すれば大半の職場はおしなべてブラックだ。
育児休暇だの週休3日だのと無理をすれば、別の誰かに無理がいく。
従業員は順応な賃金と厚生年金保険、社会保障を享受する。それでいいではないか。
ただそこに芽生えてしまう妙な「使命感」はやっかいな問題だ。
使命感がなければ働く張りはないが、それが元凶となることが多いのは問題。
私の年収など同じ還暦前の同輩と比べると笑ってしまうほどのものだが、
ならば少しずつ使命感を削っていこうと思うこともあり、それは半ば実行している。
そんなこんなでプロレタリアートとしての私の要求はただひとつ。
残業くらい気楽にやらせろ!だ。
2020.08.21(金) 692日ぶり
藤浪慎太郎が692日ぶりの勝利を掴んだ。
「○○○日ぶり」は野球報道の常套句。オフシーズン込みかよとのツッコミは抜きだ。
6回1/3を6安打4失点。実際は負け試合でもっと好投した試合もあったが、
先ずは率直にタイガースファンとして嬉しい。
その阪神ファンであるアイデンティを私はわりと人生の真ん中辺に置いているが、
今シーズンは「日めくり」でもタイガースのことには触れずにいた。
開幕からつまずき、かなり無残なチーム状態のときは気が滅入っていたし、
その後のV字回復からあっという間に借金を返済した時も、
ここで余計なことを書くとその後からジリ貧になるとも思いもあった。
20点取って大勝したときも嫌な予感がして「明日から締め直そう」と書こうとして、
それも止めておいたら、書かなくてもダメになるときはダメになるとガックリした。
そう、私は根っからの阪神ファンであることに揺るぎない自信はあるが、
私が応援することでタイガースに勝利を引き寄せる自信も揺るぎないほどないのだ。
今季は球場に行く予定はない。
そもそもマスク姿がベンチに並ぶ光景など、相撲でいえば初っ切りみたいなものので、
花相撲ならぬ花野球ねぇかと見切って、
ただでさえ枚数制限されたチケットに血眼になる価値などないと勝手に決めている。
……日本シリーズに出たらその時は考えさせてもらうが。
2020.08.22(土) 『糸』に見るプログラムピクチャーの残り香
シネコンでは『夜会/リトルトーキョー』、『LIVEセレクション一会』が上映され、
そこに『糸』の公開。なにやら中島みゆき祭りの様相を呈している。
それでも中高年目当てにただBlu-rayを上映して特別料金をとるYAMAHA商法。
そんなものに“そうそうつき合わせてもいられない~”のだ。
この『糸』にしても予告編、ポスターを見たときは思わず舌打ちしたくなった。
まずコピーの“中島みゆき珠玉の名曲「糸」が映画化”の文言に途惑った。
あらかじめ楽曲の世界感があり、そこに沿った万人受けの感動物語の路線が見えている。
しかも主演は菅田将暉と小松菜奈。いや何故か菅田将暉と小松菜奈か。
『溺れるナイフ』は未見だが、『ディストラクション・ベイビーズ』では夜中の車中で、
レイプからの殺し合いをリアルに演じた二人だ。それが今度は万人向けの感動作?
ポスターの図柄に悪い冗談かと思ったが、この二人なら観たいと思ったのも確か。
さらに監督が瀬々敬久。どうしても“アンチ感動作”の色合いが濃くなる。
しかし結論をいう。結構感動した。
とくに「泣いている人がいたらそっと抱いてあげて」このフレーズには参った。
そのセリフを最初に口にした榮倉奈々。間違いなく彼女のベストアクトだろう。
菅田将暉、成田凌、二階堂ふみが会する中で榮倉奈々が画面を持っていく。
へぇ~こんなこともあるのかと思った。ある意味「ファイト!」の楽曲の力なのか。
「糸」にしろ「ファイト!」にしろ、最初はアルバムの中の一曲だったが、
今や中島さんの誰もが知るスタンダードになった。
平成元年に生まれた男女が紆余曲折のうち、令和へのカウントダウンに結ばれる話。
30年の時の流れ、美瑛から東京、沖縄、シンガポールと舞台も転々とする。
時間と空間のスケール感を背景に、人との関係の移ろいもうまく表現され、
予測した王道の展開ながら、予想を超えた出来栄えに仕上がっている。
“感動路線”が敷かれた中で、きちんとその路線を大真面目にやり切った意味で、
プロがきちんと路線通りに仕上げるプログラムピクチャーの懐かしさも感じた。
瀬々敬久はもちろん、菅田将暉と小松菜奈、その他の演技陣もみんなプロだ。
もちろん100点満点の映画ではない。中には批判的な見方もあるだろう。
「瀬々監督にはこのような映画で時間を無駄にしてほしくないと心から思う。」
これはキネマ旬報に載った某評論家の批評。
その発想の幼稚さにうんざりする。
映画作家のイメージを自分都合な狭い思い出の中で完結させようとする、
まったく映画界に毒にも薬にもならぬ観客不在の駄文が未だに罷り通る。
日本映画のベースに『糸』のような映画がもっとあればいいと心から思う。
2020.08.23(日) 税理士と契約
税理士と契約した。
私の中の相場感を遥かに超える依頼料だが、覚悟を決めた。
とにかく痛感したのは「相続」に関する私のあまりに持たざる者の非力さだ。
親指と人差し指で「この程度の申告台帳を作る必要がある」といわれ完全にヒビった。
そんな面倒くさい作業を独力でやり切る自信がない。
単に親父の貯金通帳から引き出した金額を計算するのにほぼ徹夜となった。
そこに家屋、土地の不動産(路線評価額)に保険が加味されるとなると、
申告を自力でやったとして、そこに費やされる労力と時間を想像するだけで心が折れる。
それでも税理士には様々な資料の提出を求められるだろう。
今、お父様の7年間分の通帳を用意してくださいと言われ、途方に暮れている。
2020.08.24(月) 要町交差点
どんなにクソ暑かろうが池袋からひと駅歩いて出勤している。
実際は「健康のため」を隠れ蓑に、定食屋で朝メニューを食い、コンビニで大福を買い、
途中にあるお寺で灰皿が設置されているのをいいことに一服つける。
そのためだけに15分歩いているようなものなのだ。
途中に要町交差点という要町通りと山手通りが行き交う大きな交差点があり、
そこで通学する子供たちを誘導するおじさんに挨拶するのも日課としている。
昔でいう「緑のおばさん」のおじさん版か。今日から新学期なのだそうだ。
いつものように朝の8時前に交差点の横断歩道を渡って出勤したのだが、
それから一時間ほど経ったろうか、突然、物々しい数のパトカーと消防車のサイレン音。
警官が走ってきてマイクで右車線の閉鎖を呼びかけている。
事故だ。都内有数の交差点だけに一気に緊張感が辺りを覆う。
時間的には通学時間も終了し、子供たちもおじさんにも影響はなかったと思うが、
実はこの要町交差点、結構な割合で事故が発生する。
それもあるがこの交差点にはどうしても嫌なイメージがつきまとう。
この交差点の下には首都高速道路が走り、その下を地下鉄有楽町線、
さらにその下を副都心線が走るという、地下三層構造になっていて、
その上の交差点を大型のダンプ、バス、乗用車が渋滞を作っている。
古地図を見るとこの辺りは畑が多く、川が流れているような地盤だ。
決定的な災害を想像したとき、思ってしまうのが地下三層の崩落。
こんなスペクタクルすぎるパニックが勃発したら我々もひとたまりもない。
こんなところで絶対に死にたくない!と思いながら渡る交差点かいな。
2020.08.25(火) 耳障りならぬ、耳に障るな
私は体調が崩れるとすぐ喉が炎症を起こすので、何度かお世話になっているが、
仕事を抜けさせてもらい耳鼻咽喉科に行ってきた。
「耳」でクリニックに通うのは生まれて初のこと。
耳たぶが膿んでいる話と難聴気味になっている話は書いたが、
耳を掻くうちに、黴菌を耳の中に押し込んで難聴を悪化させることはあるらしい。
医者がいうには「とにかく耳には障るな、障るとロクなことはない」らしい。
耳たぶの膿はかさぶたとなり、それを弄ってまた膿む悪循環を繰り返している。
汗で濡れたマスクを耳にかけ、眼鏡もかけるわけだから耳に負荷はあるのだろう。
因みに「かさぶた」は「瘡蓋」と変換される。ヤマイダレの漢字は見るからに怖い。
その耳たぶの外傷には塗薬を処方されたが、難聴気味なのは困ったものだ。
全体的に聴こえなくなっているのではなく、ある一定の音感が聴き取りにくい。
モスキート音ではないが、電子体温計のピピッをはじめ踏切の信号機も怪しい。
今や、体中が何らかのトラブルを抱えている状態だが、
耳が聴こえつらくなったことのポンコツ感たらない。
2020.08.26(水) 映画『ブックスマート』の問答無用の面白さ
なにを隠そう『桃尻娘』直撃世代として、ティーンに限らず女同士の友情話は好きだ。
のっけからハイスクールで浮くモリーとエイミーの間で完結するダンスの可笑しさ。
そこからすでに気分を持っていかれたような気がする。
もちろんオッサンがティーンたちの青春に迎合するつもりはないが、
このバディの諍いも慰めも友情ぶりが真っ当に “男前” だったのは素敵だった。
エイミーが自虐するモリーをビンタし「親友の悪口を言わないで!」にはやられた。
定番の卒業スピーチもさることながら、二段落ちのエンディングの後味の良さ。
最新アメリカンPopsへのアンテナはすっかり錆びついてしまったものの、
今宵はサントラを聴きながらエイミー渾身のカラオケを思い浮かべてみようかなと。
2020.08.27(木) 浅草の“おっかさん”
弟子筋にあたるナイツから今の様子を聞くくらいだったが、
浅草育ち。11歳で舞台に立っていたというから近代芸能史の生き字引。
内海桂子師匠が亡くなられた。御年97歳。大往生だろう。
実家にテレビが入った時から好江・桂子の漫才は聞いてきた。
絶対に外すことはない漫才。まさに名人芸だったと思う。
人柄は大沢悠里のラジオでもお馴染みで、
その時からすでに小うるさい下町の婆ちゃんだった。
そういえば寄席中継が全盛だったころ、お婆ちゃん芸人は多かった。
子供ゆえ、今思えば宮川花子くらいの齢でもお婆ちゃんと思っていたかもしれないが、
若者や世の中を叱り飛ばす「おっかさん」が今のテレビから消えて久しい。
桂子師匠の江戸弁ならぬ下町の東京弁の語彙は、えげつなさも残しつつ、小粋だった。
もう舞台に立てなくて寂しいだろうが、どうか安らかに。
2020.08.28(木) 首相辞任
隣のデスクにいる先輩から「アベさん辞めるってさ」といわれ、
「へっ、研修会で司会やってくれてるアベさん、辞めちゃうの」
と本気で答えて爆笑を買った。
自らの体調を鑑みて、総理の激務に耐えられそうにないと判断したということ。
実際、想像を絶する激務なのだろう、体調を理由に辞すのは当然の権利だ。
ただ首相任期歴代最長記録を待っての辞任というのは、
一試合代打に出て、連続試合出場記録更新みたいな話で恰好良くはなかった。
そもそもコロナ禍において、何十日間も国民に背を向けていたとの批判は当然だ。
安倍内閣の評価は難しい。8年近くもやっていれば功罪半ばするものだろう。
「長期政権による驕り」という常套句。本当に驕っていたのかどうかわからないが、
権力が集中したことで馬鹿な官僚たちが「忖度」なる言葉を流行らせたのも事実で、
自身が「長期政権=権力の腐敗」の構図を作ってしまったことは否定できない
ただひとついえること。
安倍政権を熱狂的に歓迎している側、執拗に叩いていた側、
両極端にいる輩たちが私にはどうにも気持ち悪かった。
2020.08.29(土) 映画『ソワレ』
展開の途中で『遊び』『青春の殺人者』などの記憶を蘇らせていた。
『ソワレ』にはそれをさせる余白がある。でもその余白は決して欠点ではない。
そしろ映画には「逃避行もの」という確たるジャンルがあって、
それが普遍的であることに今更に気がついて、様々な記憶が噴出したのだと思う。
もちろんそれ故、既視感から逃れられないのもジャンルの宿命だろうが、
タカラとショウタが立ち寄り先を転々とする中で、
関係性が醸成されそうでされないもどかしさも魅力ではなかったか。
それでもヒロイン、芋生悠が時間を追うごとに綺麗になっていく。
とくに全力疾走のフォームの美しさ。映画でここまで見事に走るヒロインも珍しい。
きっと彼女は相当な意志の強さを内に抱えているのだろう。
逃避行がもたらす成長と気づきが芋生悠のそれとシームレスに繋がっている。
ただ道成寺の安珍・清姫伝説の芝居立てや、タカラの少女時代のフラッシュバックは、
余白を埋めんがためのノイズに思えて、やや集中力を削がれた気がする。
余白を余白として投げ出した方が二人の生理がより浮かび上がったのではないか。
そして妙に腑に落ちるラストシーン。
これを是とするか否とするか、まだ答えは出せていない。
2020.08.30(日) 映画『幸せへのまわり道』
映画はトム・ハンクスのキャリアから滲み出る“支配力”で見せてしまうが、
ファンタジックな街のミニチュアに閉じ込められ、ウサギちゃんにされるロイド、
そんなロイドのもがき苦しむ様を微笑みながら見つめるフレッド。
そのフレッドも一心不乱にプールの水を切り、低音部の鍵盤を叩いて観客を驚かし、
死にゆくロイドの父親の耳元に囁き、自分への救済を求める。
長年にわたり、誰からも慕われてきた人気者が内面に抱える闇。
そんなフラストレーションがいつか破裂するのではないかと、どうにも緊張が拭ない。
そして憔悴しきっていたロイドを明らかに変身させる中華料理屋での「一分間の沈黙」。
ロイドがどう救いに導かれるのかと展開を追っていたら、「一分間の沈黙」って、、、。
そんな映画、今まで観た記憶がないぞ。
一種のカルト映画?と訝しく思ったところでエンディング。
そこに本物のフレッド・ロジャースのVTR映像が出てくる。
実は冒頭の「実話である」との断りテロップの存在を忘れていた。
帰宅後、監督のインタビューやメイキング映像を見る。
改めて「Mister Rogers' Neighborhood」という絶大的な人気番組あり、
ミスター・ロジャースが全米の誰からにも愛されたパーソナリティだったことを知る。
さらに製作したSONYにとって大恩人的存在ではないか(wiki)。
そんな鉄板な人物を描くのにカルト映画はねぇわなと納得させられた次第。
あのミニチュアの街並みが私には何とも気持ち悪かったが、
アメリカ人にとっては懐かしくも愛すべき「Neighborhood」なのだろう。
もう少し予備知識を入れてから観るべきだったか。
・・・・いやいや、そこまではちょっと。
2020.08.31(月) 母の命日
今日は夏季休暇の消化。
車を12か月点検に出す間、郵便局で両親の保険と貯金残高を確認し、
区役所で死亡届提出後に送られてきた様々な書類の対応をした。
まぁそれなりに忙しい思いをしたわけだが、
そんな中で「藤川球児引退を表明」との情報が飛び込んできた。
あゝとうとうこの日が来たか・・・と、今日の「日めくり」のテーマはこれだと思う。
・・・いやいや、一年前の8月31日。母親を亡くした日ではないか。
まったくそんなことも頭からすっ飛ばして、母の通帳と睨めっこしていたわけか。
あれから一年。母のお骨はまだ仏壇にしまったきりだが、
本当に12か月点検が必要なのは車ではなく、私自身のようだ。
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